2014年12月14日日曜日

20. 多賀城跡・壷の碑(いしぶみ)

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【現代読み】
かの画図(えず)にまかせて たどり行けば、
奥の細道の山際(やまぎわ)に、 十符(とふ)の菅(すげ)有り。 
今も年々十符の菅菰(すがごも)を調(ととの)えて 国守(こくしゅ)に献(けん)ずと云えり。

 壷碑(つぼのいしぶみ) 市川村(いちかわむら)多賀城(たがじょう)に有り。

つぼの石ぶみは、 高さ六尺余り 横三尺ばかりか。
(こけ)を穿(うが)ちて文字幽(かす)か也。 四維(しゆい)国界(こくかい)之数里を記(しる)す。
 
『此城(このしろ) 神亀(じんき)元年 按察使(あぜち)鎮守(ちんじゅ)府将軍 
大野朝臣(おおののあそん)東人(あずまびと)之置所(のおくところ)也 天平宝字(てんぴょうほうじ)六年 
参議東海(さんぎ・とうかい)東山(とうせん)節度使(せつどし) (おなじく) 将軍
恵美朝臣(えみのあそん)朝狩(あさかり)修造(しょぞう)(「也」の誤り) 十二月 朔日(ついたち)

と有り。 聖武(しょうむ)皇帝の御時(おほんとき)に当(あた)れり。

昔よりよみ置ける歌枕(うたまくら) 多く語り伝うと云えども、 
山崩れ、 川流れて、 道改(みちあらた)まり、 
石は埋(うづ)もれて 土に隠(かく)れ、
木は老いて 若木に代(か)われば、 
時移り、 代(よ)変じて、 その跡たしかならぬ事のみを、 
(ここ)に至りて疑いなき 千歳(せんざい)の記念(かたみ)、 
今眼前に 古人の心を閲(けみ)す。 
行脚(あんぎゃ)の一徳、 存命(ぞんめい)の悦び、 
羈旅(きりょ)の労を忘れて、 泪(なみだ)も落つるばかり也。

【語句】
おくの細道: 奥大道に対する名称。 仙台東北部、岩切村・東光寺門前付近で、大淀三千風らによって整備された名所。三千風が撰定した亀ヶ岡八幡宮二十八景にも挙げられている。
十符の菅菰: 編み目が十筋ある、(すげ)で編んだ(こも)のこと。 古歌では陸奥の名産とされ、その材料である菅は、当時岩切あたりで栽培されていた。
菰は現在では日本酒の菰樽や、樹木の防寒や害虫駆除で幹に巻いたりするものに見られる。→ 画像

壷の碑(つぼのいしぶみ): 宮城県多賀城市にある「多賀城碑」のこと。
 ※芭蕉が書き写した文字は「苔(こけ)を穿(うが)ちて文字幽(かす)か也」―とあるように読みにくかったようで、実際の石碑とは何箇所か違うところがある。 → 詳しくは「多賀城碑文」のリンクへ。
多賀城: この頃既に城は無く、曾良旅日記には「市川村の上に多賀城跡有り」とある。
四維国界之数里を記す: 四方の国境までの距離で、ここでは省かれている。→ 詳しくは「多賀城碑文」へ。
聖武天皇: 大宝元年(701年) - 天平勝宝8年(756年)。在位:神亀元年(724年) - 天平勝宝元年(749年)。奈良時代の第45代天皇。 
神亀元年に即位しているから、丁度その年に建てられた碑ということになる。「おくのほそ道」の旅は元禄二年(1689年)だから、その965年前のこと。

昔より詠み置かれる哥枕 多く語り伝うと云えども: 平城時代には平城京を中心として、「南に大宰府、北に多賀城を建てて一大拠点とし、塩竃神社を精神的支柱として、松島湾・塩竃湊を国府津とする都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在した」―とある。
閲する: 1.良く調べる、あらためる、確かめる。 2.(年や時間が)経つ。経過する。 3.(文章などに)目を通す。「けみする」と「えっする」、二通りの読み方がある。



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