2014年12月16日火曜日

18. 武隈の松

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
武隈(たけくま)の松にこそ め覚(さ)むる心地(ここち)はすれ。
根は土際(つちぎわ)より 二木(ふたき)に分かれて、 
昔の姿 失(うしな)はずと知らる。 
(ま)ず 能因(のういん)法師 思い出(い)づ。 

往昔(そのかみ)、 陸奥(むつ)の守(かみ)にて下りし人、 此(こ)の木を伐りて、 
名取川(なとりがわ)の橋杭(はしぐい)に せられたる事など あればにや、 
「松は此のたび跡もなし」 とは詠(よ)みたり。 

代々(よよ、) あるは伐(き)り、 あるいは植え継ぎなどせしと聞くに、 
今将(いまはた)千歳(ちとせ)の形 整いて、 
目出度(めでた)き 松の気色(けしき)になん侍(はべり)し。

 武隈の 松みせ申せ 遅桜(おそざくら) 

 と、挙白(きょはく)と云う者の 餞別(せんべつ)したりければ、

 桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきご)

【語句】
武隈の松: 歌枕。 「二木の松(ふたきのまつ)」としても知られ、根本から二本に分かれた形をしており、古来多くの歌に詠まれてきた。
芭蕉が敬愛する西行や能因法師が訪れた頃は跡も無かったようだが、代々植え継がれて芭蕉の頃は五代目、現在の松は七代目になるという。
能因法師 思い出づ: 能因が詠んだ句のこと。 
「みちの国に再び下りて後のたび、武隈の松も侍(はべ)らざりければ よみ侍りける
『武隈の 松は此のたび跡もなし 千歳(ちとせ)を経てや われは来つらむ』」 (後拾遺和歌集)

往昔、陸奥の守にて下りし人: 陸奥の守・藤原孝義のこと。
 「奥儀抄」に、『この松、宮内卿藤原元善と云ひける人の任に、館の前に初めて植えたる松なり。 野火に焼けにければ、源満仲が任に植ふ。 其の後また失せたるを、橘道貞が任に又植ふ。  其の後、(陸奥の守)孝義伐りて橋に作りて、後に絶えたり』―とある。
松は此のたび跡もなし: 前出、能因法師の詠んだ句の一節の引用。

挙白: 江戸の芭蕉門下の俳人で、草壁氏。 商人。 
松は二木を: 武隈の松は「二木(ふたき)の松」とも呼ばれ、根本から二本に分かれている。
三月越し: 江戸を三月二十七日に発って、現在は五月四日ということで、時間としては二月と八日だが、形の上では「三月越し」になる。

曾良旅日記によると、「(五月)四日 雨少し止む。辰の刻、白石を立つ。折々日の光見る。岩沼入り口の左の方に、竹駒明神と云う有り。その別当の寺の後に武隈の松有り。竹垣をして有り。その辺り、侍屋敷也」―とあり、その後で笠島や三ノ輪(箕輪)を通っている。



0 件のコメント:

コメントを投稿