2014年12月18日木曜日

15. 佐藤庄司の旧跡(五月一日)

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【現代読み】
月の輪(つきのわ)の渡しを越えて、 瀬の上(せのうえ)と云う宿(しゅく)に出(い)づ。
佐藤 庄司(しょうじ)が旧跡は、左の山際(やまぎわ)一里半 斗(ばか)りに有り。
飯塚の里 鯖野(さばの)と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。
「是(これ)庄司が旧舘也、(ふもと)に大手(おおて)の跡」 など、
人の教うるに任せて泪
(なみだ)を落とし、
又 傍(かたわ)らの古寺(ふるでら)に 一家の石碑を残す。
中にも二人の嫁(よめ)が しるし(標)、先ず哀れ也。
女なれども かいがい(甲斐甲斐)しき名の
世に聞こえつる物かなと、 袂(たもと)を濡(ぬ)らしぬ。
「堕涙(だるい)の石碑」も 遠きにあらず。

寺に入りて茶を乞えば、 爰(ここ)に義経(よしつね)の太刀(たち)、
弁慶(べんけい)が笈(おい)をとどめて、 什物(じゅうもつ)とす。

  (おい)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(かみのぼり)

五月(さつき)朔日(ついたち)の事也。

【語句】
月の輪の渡し: かつて阿武隈川にあった渡し場で、現在 月の輪大橋 が架かっている辺りにあった、とのこと。 その少し下流には「瀬の上の渡し」があり、地名の由来となっている。
佐藤 庄司: 信夫庄司(しのぶ・しょうじ)と呼ばれた武将、佐藤基治(さとう・もとはる)のこと。
源義経に仕えた忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の父親。
義経に随い鎌倉に赴く二人の息子を見送った際、手にした杖を、「二人の子がその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」と言って地面に突き刺したところ、見事に根付いて立派な桜の木に成長した、という話が伝わる。

佐藤継信: 義経四天王の一人で、屋島の合戦で大将・義経をかばうため敵の矢面(やおもて)に立って射抜かれ、その死に様が語り草となっている。 
佐藤忠信: 義経の忠臣の一人。 多勢に無勢の壮絶な最期が、やはり語り草となった武将。

庄司が旧舘: 佐藤基治の居城・大鳥城のことで、現在城跡は「館の山公園」になっている。
大手の跡: 大手門跡のことで、現在「大門」の地名が残されている辺りと推測される。
古寺: 佐藤家の菩提寺、吉祥院医王寺。 大鳥城の南方、現在の福島市飯坂町にある。
「二人の嫁のしるし(墓標)」は現存していない、とのこと。

二人の嫁: 継信と忠信の妻のことで、二人の子を亡くして悲しむ老いた義母(乙和御前)を慰めようと、亡き夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せた、という逸話が残されている。
甲斐甲斐しき名: この二人の妻の逸話は婦女子教育の教材として、昭和初期まで国定教科書に掲載されていたとのことで、当時は有名な話だったのでしょう。
堕涙(だるい)の石碑: 晋(しん)の襄陽の太守・羊公が亡くなった時、人々がその徳を慕って石碑を建てた。 そしてそれを見る者は皆涙を流したので、杜預(とよ)という人がその名を付けたと言われる。 わざわざ遠く(中国)まで行かずとも、近くにそれに劣らない石碑があるということ。
 李白の詩「襄陽歌」にも出てくるが、そこでの石碑は既に台座が剥がれ落ちて苔が生えており、それを見ても涙が流れない、と逆の意味で使われている。

(おい): 行脚僧などが、仏具や経典などを入れて背負う箱のこと。→ 画像
 「曾良旅日記」によると、「寺には判官殿笈、弁慶書シ経ナド有由」とある。
什物(じゅうもつ): (寺などで)秘蔵している宝物。 什宝。
(紙)幟: 端午(たんご)の節句に飾った五月幟(さつきのぼり)のことで、現在の様な鯉のぼりが登場するのは江戸時代になってからとのこと。
端午の節句は男子がたくましく成長することを願って、武士の鎧・兜(よろい・かぶと)や刀などを飾ったことによる。
五月(さつき)朔日(ついたち)の事: 現在なら6月17日前後。 「曾良旅日記」では二日になっているが、いずれにせよ端午の節句の頃。 「日光山」の卯月朔日から、既に一月経っていることが分かる。



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