2014年12月20日土曜日

13. 須賀川の等窮


原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
とかくして越え行くままに、 阿武隈(あぶくま)川を渡る。
左に会津根(あいづね)高く、右に岩城(いわき)・相馬(そうま)・三春(みはる)の庄(しょう)、
常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地を境(さか)いて 山連なる。
影沼(かげぬま)と云う所を行くに、 今日は空曇りて物影映(うつ)らず。
須賀川(すかがわ)の駅に 等窮(とうきゅう)という者を尋ねて、四・五日とどめらる。

先ず「白川の関いかに越えつるや」と問う。
「長途の苦しみ、心身疲れ、且(か)つは風景に魂(たましい)奪われ、
懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしゅう思いめぐらさず。

  風流の 初めや奥の 田植え歌

無下(むげ)に越えんもさすがに」 と語れば、
(わき)・第三と続けて、三巻(みまき)となしぬ。

此の宿(しゅく)の傍(かたわ)らに、大きなる栗の木陰を頼みて、世を厭(いと)う僧有り。
(とち)拾う太山(みやま)もかくやと 閒(しづ)かに覚えられて、ものに書き付けはべる。 
その詞(ことば)、

  栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土(さいほうじょうど)に便りありと、
  行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の一生杖にも柱にも この木を用い給うとかや。

  世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

【語句】
影沼: 「白河と須賀川の間、道端也」とあり、現在の福島県須賀川市に影沼という地名が残っているとのこと。

「或る人の書に、影沼は空曇る日は人影見えず。 往昔(そのかみ)は遥かに望めば水波茫々として望むに涯(はて)無く、飛鳥(ひちょう)影を映し、馬蹄(ばてい)波を払う。按(あん)ずるに影沼は春夏の交、地気蒸し上りて日に映ずる、荘子に所謂(いわゆる)野馬(やば)也。 田間の遊気(ゆげ)なり。 是を遊糸(ゆうし)と云う。近く見れば積気なればなり。 土地の人、それを名づけて影沼と云う。」(「行嚢抄」)とあるので、今で言う「逃げ水」や「陽炎(かげろう)」のような現象でしょう。

等窮: 相楽(さがら)伊左衛門。 須賀川宿の駅長で、奥州俳壇の有力者。 当時52歳で、芭蕉より6歳年上ということになり、俳壇でも芭蕉の先輩格に当たる。 自筆本には「等躬」とあるらしい。
白河の関 いかに越えつるや: 関を越えた時にどんな句を詠んだか、という意。
風景に魂奪われ: 風景に魅了(圧倒)され。
懐旧に腸を断ちて: 「懐旧(かいきゅう)」は昔を懐かしむこと。 白河の関を詠んだ古歌や故事などを思って。 「腸を断ちて」は「断腸の思い」というより「感激で胸がいっぱいになって」くらいの感じでしょう。

風流の初め: 今回の旅で最初の本格的な句会を指し、同時にもてなしてくれた等窮への挨拶代わりともなっている。
脇・第三と続けて: 連句の二作目と三作目。 曾良の「俳諧書留」には「奥州岩瀬郡之内須賀川・相楽伊左衛門にて」として、
 「風流の 初めやおくの 田植え歌」(翁)
 「覆 盆子を折りて 我まうけ草」(等窮)
 「水せきて 昼寝の石や なほすらん」(曾良) ―とあり、更に歌が続いている。

世を厭う僧: 俗世を逃れて隠遁する僧侶。 等窮の家の近くの庵に住んでいた「可伸(かしん)」を指す。 俗名「矢内(やない)弥三郎」で、俳号は「栗斎(りつさい)」。
(とち)拾う太山も: 西行の 「山深み 岩にしたたる水とめん かつかづ(数々)落つる 橡(とち)拾うほど」(「山家集」) 太山(みやま)は、現在なら「深山(みやま)」でしょう。
この場合の「橡拾う」は「栃の木」に生る「栃の実」で、形は栗の実に似ているが、あく抜きをしないと苦くて食べられない。 昔は山村の重要な食料の一つであったとか。
(しづか): 「忙」の対とのことで、生活の閑雅なこと。 柿衛本では「静」。
ものに書き付けはべる: 懐紙に書きつける。

行基菩薩(ぎょうきぼさつ): 奈良時代の高僧。 天平17年に朝廷より「大僧正」の位を贈られ、のちに朝廷から「菩薩」の諡号を授けられたことから「行基菩薩」と呼ばれた。 その頃から「文殊菩薩の化身(けしん)」とも言われるようになった。
(の花): 初夏の梅雨入り前後に、穂状の地味な花を付ける。 栗の花より少し早めに穂を付ける「シイノキ」と同様に特有の匂いがするが、知らない人は傍(そば)を通っても、おそらく花の匂いとは気づかないはず。



0 件のコメント:

コメントを投稿