2014年12月31日水曜日

01. 序章

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【現代読み】
月日は百代の過客(かきゃく)にして、行き交う年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々旅にして旅を栖
(すみか)とす。
古人
(こじん)も多く 旅に死せるあり。

(よ)もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘われて、漂泊(ひょうはく)の思いやまず、
海浜
(かいひん)にさすらへ、
去年
(こぞ)の秋、江上(こうしょう)の破屋(はおく)に 蜘蛛(くも)の古巣を払いて、
やや年も暮れ、
春立てる霞
(かすみ)の空に、白河の関越えんと、
そぞろ神の物に憑
(つ)きて 心を狂わせ、
道祖神
(どうそじん)の招きにあいて 取るもの手につかず、
股引
(ももひき)の破れをつづり、笠の緒(お)付け替えて、
三里
(さんり)に灸(きゅう)すうるより、
松島の月 先づ心にかかりて、
住める方は人に譲り、 杉風
(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、

  草の戸も 住み替る代ぞ 雛(ひな)の家

面八句(おもて・はちく)を 庵の柱に掛け置く。

【語句】
百代の過客: 李白の詩「(そ)レ天地万物之逆旅(旅館)ナリ。光陰(歳月)ハ百代之過客(旅人)ナリ」による。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて: 船頭や馬方の生活を指す。
古人も多く: 芭蕉が敬愛し、旅で死んだ詩人、西行宗祇、唐の杜甫李白らのこと。 「おくのほそ道」には西行ゆかりの地が多く、その句も幾つか引用されている。
海浜にさすらへ: 二年前の十月から翌年五月まで、「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅で海辺を歩いている。
去年(こぞ)の秋: 前年八月末(現在の10月)に「更級(さらしな)紀行」の旅から江戸の芭蕉庵に戻っている。
江上の破屋: 「隅田川のほとりにあるあばら家」の意、江戸深川にあった芭蕉庵を指す。
やや年も暮れ、春立てる霞の空に: 原文ではわずか一行で冬から春へと季節が変わっている点に注意。
 
白川(白河)の関 陸奥(みちのく)の入り口に当たる関所だが、芭蕉の時代には既に関所は無かったらしい。 歌枕としても知られ、能因(のういん)法師の有名な句 「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」 を念頭に置いているようで、同様に「霞」と「関」を配している。
そぞろ神: 次の「道祖神」と対をなすが、どうも芭蕉の造語らしく詳細は不明。
道祖神: 旅や交通の安全を守る神とされ、現在でも路傍(道端)のどこかで見かけられる。
股引の破れをつづり、笠の緒付け替えて: ほぼ半年に及ぶ長途の旅に出るのだから、普通なら新しい衣服や笠を用意するところ。
三里に灸すうる: 膝頭の下の外側にある窪みで、灸の壷。 そこに灸をすえると脚が丈夫になるということで、これも旅支度の一つ。
松嶋(松島): 日本三景の一つに数えられ、奥州第一の景勝地として知られた歌枕。 月を詠んだ句も多いという。
芭蕉は仙台の俳人・大淀三千風(おおよど・みちかぜ)の著書「松嶋眺望集」で、松嶋への憧憬を深めていたと言われる。 (仙台へ行った時、「曾良旅日記」によると五月五日に三千風を訪ねているが、旅に出ていて逢えなかった)

住める方は人に譲り: 「むすめ持ちたる人に草庵を譲りて」や、「日ごろ住ける庵を相知れる人に譲りて出(い)でぬ」―という文章が残されている。
杉風: 杉山氏で、「杉風(さんぷう)」は俳号。 日本橋の魚問屋・鯉屋の当主で、通称「鯉屋市兵衛」。 最古参の門人の一人で、芭蕉の経済的後援者。
別墅(べっしょ): 別宅。 芭蕉庵の近くで、同じ深川にあった採荼庵(さいとあん)とのこと。
 昨年秋に江戸へ戻ってすぐの九月には、ふるさとの伊賀上野から加兵衛という人物が江戸にやって来て、芭蕉庵に居候(いそうろう)していた。 「加兵衛がこと、寒空に向かい単物・かたびらばかりにて丸腰同然の躰、・・・ まづ春まで手前に置き、草庵の粥など炊かせ、江戸の勝手も見せ申し候」という書簡が残されているから、そうしたことも重荷になっていたのでしょう。

草の戸: 草庵のことで、これまで住んでいた芭蕉庵を指す。
雛の家: 庵を譲った人に娘のいたことから、わびしかった草庵もこれからは雛人形を飾る(華やいだ)家に変わることだろう、ということ。 (次の章での旅立ちは、既に三月三日の雛祭りも終わった弥生二十七日となっている)
面八句: 連句の初表(しょおもて)の八句のこと。 もっとも、この句以外は残されていないことから、実際に連句が詠まれたかどうかは分かっていない。
庵の柱に掛け置く: 連句の書かれた懐紙は、一端を綴じて柱に掛けておくのが当時の慣例だったという。 「庵」は芭蕉庵だから「アン」と読ませる本もあるが、朗読なら「いおり」と読む方が聞き手には分かりやすいでしょう。

2014年12月30日火曜日

02. 旅立(三月二十七日)

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【現代語読み】
弥生(やよい)も末の七日(なのか)、明ぼのの空 朧々(ろうろう)として、
月は有明(ありあけ)にて 光おさまれるものから、
富士の峰 幽(かす)かに見えて、
上野・谷中(やなか)の花の梢(こずえ)、またいつかはと心細し。
むつまじき限りは 宵(よい)よりつどいて、
舟に乗りて送る。
千住(せんじゅ)と云う所にて 船を上がれば、
前途三千里の思い 胸にふさがりて、
(まぼろし)の巷(ちまた)に 離別の泪(なみだ)をそそぐ。

  行く春や 鳥啼(な)き 魚の目は泪

是を矢立(やたて)の初めとして、行く道なお進まず。
人々は途中(みちなか)に立ち並びて、後ろ影の見ゆる迄はと、見送るなるべし。

【語句】
弥生も末の七日: 旧暦の三月二十七日で、現在なら5月16日前後。
明ぼのの空 朧々として: 木下長嘯子の著「挙白集」収録「山家記」の、「ろうろうと霞みわたれる山の遠近(おちこち)、・・・ 明ぼのの空はいたく霞みて、有明の月少し残れるほど、いと艶なるに・・・」を踏まえたものらしい。
 「朧々(ろうろう)」は「朧(おぼろ)に」ぼぅっと霞んでいる様子を表したもの。
在明(有明): 意味としては「夜明け」や「明け方」のことで、「有明の月」だと陰暦で十六夜以降の、夜が明けても空に残っている欠けた月のこと。 特に二十六日頃の細い月を「有明月」といい、古くは二十六夜講などの風習があった。
 源氏物語・帚木 「月は有明にて光をさまれる物から、影さやかに見えて、中々をかしき曙(あけぼの)なり」

上野・谷中の花の梢: どちらも江戸における桜の名所だが、この年の花の季節は既に終わっている。
千住: 奥州街道最初の宿駅で、ここから陸奥(みちのく)への旅が始まる。 深川からは舟で10kmほど。
前途三千里: 「前途」は当時(せんど)と読んだようで、現代読みなら「ぜんと」でしょう。
 「三千里」は漢詩にしばしば用いられる表現で、これからの長い道のりを表している。
矢立: 綿に墨を含ませた墨壷と筆入れを組み合わせた、携帯用の筆記具。

2014年12月29日月曜日

03. 草加

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【現代語読み】
ことし(今年)元禄二年(げんろく・ふたとせ)にや、
奥羽長途(おうう・ちょうど)の行脚(あんぎゃ) (ただ)かりそめに思い立ちて、
呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)(うら)みを重ぬといえども、
耳に触れて いまだ目に見ぬ境(さかい)、
(も)し生きて帰らばと 定めなき頼みの末をかけ、
その日 (ようよう) 草加と云う宿(しゅく)にたどり着きにけり。

痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物 (ま)ず苦しむ。
(ただ) 身すがらにと 出立(いでた)ち侍(はべ)るを、
帋子(かみこ)一衣(いちえ)は 夜の防ぎ、
浴衣(ゆかた)・雨具・墨(すみ)・筆のたぐい、
あるは さりがたき餞(はなむけ)などしたるは、
さすがに打ち捨て難くて、
路次(ろし)の煩いとなれるこそ わりなけれ。

【語句】
元禄二年: 西暦1689年で、芭蕉は当時46歳だから、まだ白髪の老人というほどではない。
奥羽: 陸奥(みちのく)と出羽の略。
行脚(あんぎゃ): 本来は、僧侶が諸国を巡って修行することで、転じて徒歩で諸国を遊歴すること、とある。 芭蕉の場合は墨染めの衣を着た僧形で旅をしていた。
呉天: 諸説あってはっきりしないが、呉の国は今の南京の辺りで、当時の都・長安から見れば遥か東の国であったことから、「はるか遠くの空」くらいの意味とする意見に従う。
 『禅則に「笠は重し呉天の雪、履は芳し楚地の花」と云う句あり。 白髪を雪に譬(たと)える事は、和漢に例多し。(菅菰抄)』とある。
白髪の恨みを重ぬといえども: (たとえ)白髪の老人になってしまうような旅の苦労を重ねようとも。

草加(そうか):  奥州街道二番目の宿駅で、千住からは9kmほどの距離。 
 「曾良旅日記」によると、「廿七日夜、カスカベ(春日部)ニ泊ル。江戸ヨリ九里余」とあるからもっと歩いたことになるが、芭蕉の紀行文は事実そのものを調査報告書のようにまとめたものではない点に注意。
肩にかかれる物: 当時の旅館は夜具を貸さず、雨具も現代の様に軽い物は無かったから、これらの荷物を振り分けにして肩に掛けたら、肩に食い込む程であったはず。

帋子(かみこ): 厚紙に柿渋を何度も重ね塗りして、日に干して乾かしてから揉みほぐした衣類の一種で、夜具の代わりになる防寒具。
さりがたき餞(はなむけ): 断りきれない餞別の品々。
路次(ろし): 道中。
わりなけれ: 仕方がない、やむをえない。


2014年12月28日日曜日

04. 室の八嶋


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【現代読み】
室の八嶋(やしま)に詣(けい)す。 同行(どうぎょう)曾良が曰(いわ)く、
『此の神は「木の花(このはな)さくや姫の神」と申して、富士一体なり。
無戸室(うつむろ)に入(いり)て焼き給う、誓いの御中(みなか)に、
火々出見(ほほでみ)の尊(みこと)生まれ給いしより、
室の八嶋と申す。』

(また) (けむり)を読み習わし侍るも この謂(い)われなり。
(はた)、 「このしろ」という魚(うお)を禁ず。
縁起(えんぎ)の旨、 世に伝うことも侍(はべ)りし。

【語句】
室の八嶋(むろのやしま): 現在は栃木市の「大神(おおみわ)神社」の境内の池にある島をその跡と見ているようだが、はっきりとしない。
同行(どうぎょう)曾良(そら): 同行(どうぎょう)は「巡礼などの道連れ」。 
 曾良は「川合曾良(かわい・そら)」のこと。 芭蕉に従って奥羽の旅に随行するが、ここでやっと名前が出てくる。 当時四十歳で、「曾良・旅日記」や「俳諧書留」など、「おくのほそ道」を知る上での貴重な資料を残した。 この後「日光・裏見の瀧」で詳しい紹介が入る。

木の花さくや姫(このはなのさくやひめ): 古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と表記。

 天照大神(あまてらす・おおみかみ)の孫「ニニギの命(みこと)」が初代天子として地上に天下り(天孫降臨)、下界で木の花のように美しい娘「さくや姫」と出会い、求婚する。
さくや姫の父、山神(さんじん)大山祇(オオヤマツミ)はいたく喜び、二人はその夜の内に結ばれた。
やがて月満ちて子供を産むという時になり、その知らせを聞いたニニギの命(みこと)は「たった一晩で妊娠するはずがない。それは我が子に非ず、きっと国つ神(人間界)の子に違いない」とあらぬ疑いをかける。

無戸室(うつむろ)に入て焼き給う、誓いの御中(みなか)に:
 自分の貞節を疑われたサクヤ姫は 「私の身籠った子が人の子なら(火の中で)無事には生れないでしょう、でも天孫であるあなたの子なら(火中でも)無事に生れるでしょう」 と神意を受ける誓いを述べた。

そして戸の無い広い寝所を作ると出口を土で塗り固め、寝所に火を放つ。 その燃え盛る炎の中で生まれ出た子が、
「火照命(ほでりのみこと:兄の海幸彦)」、「火須勢理命(ほすせりのみこと」、そして最後に生れたのが
火遠理命(ほおりのみこと:弟の山幸彦)」(またの名を「穂穂出見命(ほほでみのみこと」)ということになっている。

火々出見の尊(ほほでみのみこと): 前出の「火遠理命(ほおりのみこと)」のことで、「わだつみのいろこの宮(竜宮)」まで兄(海幸彦)の大切な釣り針を捜しに行った「山幸彦」である。
三人兄弟なのに一人だけ名前があるのは、後の神武天皇の祖父に当たる天皇家の人だからで、海神ワタツミの娘「豊玉毘売(とよたまひめ)」を妻とし、神武の父に当たる「鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)」を産む。

富士一体なり: 富士山信仰や、富士山を御神体とする浅間神社(せんげんじんじゃ)が、長い年月の間に神話中の人物「木の花さくや姫」と一体となっているようである。 祭神が一体のことを「一体分身」というので、その略でしょう。

(けむり)を読習(よみならわ)し侍(はべ)る: (室の八嶋を歌にする時は)歌枕として「煙」を読み込むのが慣(なら)わしになっている、ということ。 さくや姫が火中で出産したことが、転じて「竃(かまど)の煙」となったという説がある。
 ※歌枕(うたまくら): 古歌に詠まれた諸国の名所(の名前)。

 室の八嶋 を詠んだ句で「煙」を読み込んだ歌は、左のリンクを参照。
「おくのほそ道」には芭蕉の句は無いが、曾良の「俳諧書留」の最初に、
「糸遊(いとゆふ)に 結びつきたる 煙(けぶり)かな」 という芭蕉の句が収められており、それが「室の八嶋」とされる場所に石碑として立っている。 「おくのほそ道」の目的の一つは、各地に残る歌枕を探すことでもあった。
 ※糸遊(いとゆう): 「陽炎(かげろう)」や「遊糸(ゆうし)」のことで、季語は春。

このしろ: 体長10cmほどの若魚を「コハダ」といい、鮨(すし)ネタとしておなじみの魚。
縁記: 「縁起」と書くのが一般的。 芭蕉の文章には俗字や略字、あるいは誤字と思われる記述も多い。


2014年12月27日土曜日

05. 佛 五左衛門

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【現代読み】
卅日(みそか)、日光山(にっこうさん)の梺(ふもと)に泊る。
主人(あるじ)の云いけるよう、
「我が名を 仏(ほとけ)五左衛門(ござえもん)と云う。
(よろず) 正直を旨(むね)とする故(ゆえ)に 人かくは申し侍(はべ)るまま、
一夜(いちや)の草の枕も打解(うちと)けて休み給(たま)え」 と云う。

いかなる仏の 濁世塵土(じょくせ・じんど)に示現(じげん)して、
かかる桑門(そうもん)の 乞食順礼(こつじき・じゅんれい)ごときの人を助け給うのかと、
主人(あるじ)のなす事に 心をとどめてみるに、
(ただ) 無智(むち)無分別にして 正直偏固(しょうじき・へんこ)の者也。
剛毅木訥(ごうき・ぼくとつ)の仁(じん)に近き類(たぐい)、
気稟(きひん)の清質、 尤(もっと)も尊(とうと)ぶべし。

【語句】
卅日(みそか): 晦日(みそか)と同じで三十日のことだが、その年の弥生は小の月で三十日は無かった。 次の章が「卯月朔日(うづき・ついたち)」で始まるので、それと対比させるためと思われる。
(ふもと): 「麓」に同じ。
草の枕: 「草枕」は旅寝のこと。
濁世塵土(じょくせ・じんど): 塵あくたで穢(けが)れた現世。
示現(じげん): 本来は仏が衆生救済のため、姿を変えてこの世に現れること。

桒門(桑門・そうもん): 僧侶のことで、二人は墨染めの僧衣を着ていた。 「桒」は「桑」の俗字。
乞食順礼(こつじき・じゅんれい): 貧しい身なりをした巡礼の様な自分たちの姿を、このように描いている。
無智(むち)無分別にして 正直偏固(しょうじき・へんこ)の者: 文字通りに受け止めると「知恵が無く、正直一途なだけがとりえの人」となるが、逆に「小賢しさや損得勘定を持たない素朴な人物」と好意的に解釈している見方もある。

剛毅木訥(ごうき・ぼくとつ)の仁(じん)に近き: 論語・子路第十三:「子曰く、剛毅木訥、仁に近し」による。 剛毅は意思の強いこと、朴訥は飾り気の無いこと、仁は博愛の心で、こちらはほめ言葉になっている。
気稟(きひん)の清質: 天から稟(う)けた清らかな性質。

2014年12月26日金曜日

06. 日光山(四月一日)

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【現代読み】
卯月朔日(うづき・ついたち)、 御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。
往昔(そのかみ)、此の御山を「二荒山」と書きしを、
空海大師 開基(かいき)の時、日光と改め給う。
千歳(せんざい)未来を 悟り給うのか、
今 此の御光(みひかり)一天にかがやきて、
恩沢八荒(おんたく・はっこう)にあふれ、
四民 安堵(あんど)の栖(すみか) 穏やかなり。
(なお) (はばか)り多くて 筆をさし置きぬ。

  あらたうと 青葉若葉の 日の光

黒髪山は霞(かすみ)かかりて、 雪いまだ白し。

  剃り捨てて 黒髪山に 衣更(ころもがえ)  曾良

【語句】
卯月朔日(うづき・ついたち): 旧暦四月一日。 現在なら5月19日頃。
御山(おやま): 日光山のこと。 修験道の霊場ということで、こう呼んでいる。 
二荒山: 音読みで「にこうさん」と、湯桶(ゆとう)読みで「ふたらさん」の二通りの読みがある。
音読みの「にこう」を転じて縁起の良い「日光」の文字に改めたということで、「ふたらさん」の方は「観音の浄土・補陀洛山(ふたらせん)に比したもの」という。→ 日光山

空海大師 開基(かいき)の時: 実際は空海ではなく、延暦(えんりゃく)年間に勝道上人が開いたもので、空海の改名というのも芭蕉の思い違いのようである。
「菅菰抄」にも「空海を日光山の開基とし、及び山名を改めるの事、日光山の記、其外の書にも未だ所見なし」とある。
恩沢八荒(おんたく・はっこう): 「おくのほそ道」以外にこの言葉は出てこないから芭蕉の造語のようで、菅菰抄にある解説を要約してみると、『「恩沢」は慈愛の潤いを言い、「八荒」は四方四隅の遠方のことなり』とあり、仏の慈愛が世界の隅々まで行き渡っているということでしょう。
四民: いわゆる「士・農・工・商」の四階級の民。

剃り捨てて: 曾良は出発の朝に髪を剃って坊主となり、墨染めの僧衣に着替えたということが、次の章で紹介されている。
黒髪山: 日光男体山の別名。 剃り捨てた黒髪に掛けているが、この時の山は雪をかぶって白い。
衣更え: 旧暦の四月一日は衣更えの時期。 曾良作となっているが、芭蕉の代作らしい。



07. 日光・裏見の滝

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【現代読み】
曾良は河合氏(かわいうじ)にして 惣五郎(そうごろう)と云えり。
芭蕉の下葉(したば)に軒をならべて、
(よ)が薪水(しんすい)の労をたすく。
このたび、松島・象潟(きさがた)の眺め
共にせん事を悦び
(かつ)は羈旅(きりょ)の難をいたわらんと、
旅立つ暁(あかつき)、髪を剃りて、墨染(すみぞ)めにさまを変え、
惣五を改めて宗悟(そうご)とす。
(よっ)て黒髪山の句あり。
「衣更」の二字、 力ありて聞こゆ。

廿余町(にじゅうよちょう) 山を登って瀧(たき)あり
岩洞(がんとう)の頂きより飛流(ひりゅう)して百尺、
千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落ちたり。
岩窟(がんくつ)に身をひそめ入りて 滝の裏より見れば、
うらみ(裏見)の瀧と 申し伝え侍(はべ)る也。

  暫時(しばらく)は 瀧に籠(こも)るや 夏(げ)の初め

【語句】
芭蕉の下葉: 深川の庵には大きな芭蕉が植えてあり、曾良は芭蕉庵の近くに住んでいたことによる。
薪水(しんすい)の労をたすく: 竃(かまど)に薪(まき)をくべたり、井戸から水を汲んだりと、炊事の手伝いをすること。
 『曾良(そら)何某(なにがし)、此のあたり近く、仮に居を占めて、朝な夕なに訪(と)いつ訪はる。 我喰ひ物いとなむ時は柴(しば)折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は来りて軒を叩く。 性隠閑を好む人にて、交金(まじはりきん)を断(た)つ。 或る夜、雪に訪(と)はれて、
「君(きみ)火を焚(た)け よきもの見せん 雪まろげ」 はせを(芭蕉)』 河合曾良・遺稿「雪丸げ(※雪丸げ=雪玉)

象潟(きさがた): 松島と並ぶ景勝地で、「おくのほそ道」でも松島の風景と対比して描写しており、「おくのほそ道」を東北の旅と限定すれば、第一部は「象潟」で一旦完結している。
旅立つ暁(あかつき)、髪を剃りて: 曾良が剃髪して改名したのは、実際は前年(元禄元年)暮れとのこと。
墨染(すみぞ)め: 黒く染めた僧衣をいう。

廿余丁(町): 一丁は約109m.だから、二千数百メートルほどの距離。
飛流(ひりゅう)して百尺: 李白の詩(「廬山の瀑布を望む」)に 「飛流直下三千尺」 という表現がある。
 一尺は約30cmだから30メートルくらいで、「百尺」と「千岩」を掛けている。
碧潭(へきたん): 碧(濃いあおみどり色)の水をたたえた滝つぼ。

裏見(うらみ)の滝: 日光三名瀑の一つに数えられ、かつては裏に設けられた道からも滝を眺めることができたのでこの名が付いた。 現在は上部の岩が崩落し、裏からは見られなくなっている。
 なお、「曾良旅日記」によると、「四月朔日(前夜より小雨)に御宮(東照宮)を拝見し、其の夜に五左衛門という者の方に宿す。 同二日、天気快晴。うら見の滝、含満が淵(がんまんがふち)見て巡る。」とあり別の日付になっている。

瀧に籠(こも)るや 夏(げ)の初め: 朔日(ついたち)から衣更えということで、季語は夏の初め。
修行僧は夏の雨季の間、夏籠りや夏安居(げあんこ)といって、外出せずに籠って修行したことによる。 実際の夏籠りは旧暦四月中頃からとのこと。




2014年12月25日木曜日

08. 那須野

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【現代読み】
那須(なす)の黒羽(くろばね)と云う所に 知人(しるひと)あれば、
(これ)より野越(のごえ)にかかりて 直道(すぐみち)を行かんとす。
遥かに一村(いっそん)を見かけて行くに、雨降り 日暮るる。
農夫の家に一夜(いちや)を借りて、明ければまた野中(のなか)を行く。
そこに野飼(のがい)の馬あり。
草刈る男(おのこ)に 嘆き寄れば、野夫(やふ)といえども
さすがに情け知らぬにはあらず。

「いかがすべきや。 されども此の野は縦横に分かれて、
ういうい敷(し)き旅人の 道踏み違(たが)えん、
あやしう侍(はべ)れば 此の馬のとどまる所にて馬を返したまえ」
 と、貸し侍りぬ。

小さき者ふたり、 馬の後を慕(した)いて走る。
(ひと)りは小姫(こひめ)にて、 名を「かさね」と云う。
聞きなれぬ名の やさしかりければ、

  かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成るべし  曾良

(やが)て人里に至れば、
(あたい)を鞍つぼに結び付けて 馬を返しぬ。

【語句】
那須の黒羽: 現在の栃木県那須郡に黒羽町があり、日光からは六十数km.の所。
知人(しるひと)あれば: 次の「黒羽」の章で「黒羽の館代(かんだい)」を訪ねている。
野越え: 広い野原を横切ること。
直道(すぐみち): 真っ直ぐな近道。
野飼いの馬:  野原につないで草を喰わせている馬。
嘆き寄る: 近くに行って嘆願する。

いかがすべきや: どうしたらよいものか。
ういうい敷き旅人: 道に不慣れな旅人。
あやしう: 心配だから、気がかりだから。 「はべる」は丁寧語。
此の馬のとどまる所にて馬を返したまえ: 「奥細道・菅菰抄」には「馬は道を知るものなり」とある。
 韓非子に云う、「斉(せい)の桓公(かんこう)、孤竹(の国)を伐(う)つ。 春に往(ゆ)きて冬に還(かえ)る、迷惑して道を失う。(宰相の)管仲(かんちゅう)が曰く、老馬之智を用う可(べ)し。 乃(すなわ)ち老馬を放して、而(しこう)して之(これ)に随(したが)う。 遂(つい)に路(みち)を得たり」(「老馬之智」)

子姫: 小娘。
あたい(価): 馬の借り賃。
鞍壷(くらつぼ): 馬鞍中央の窪んだ人の乗る部分。
 ※ この「かさねとは」の句も「曾良旅日記」の「俳諧書留」には載っていないので、芭蕉の代作と考えられている。



2014年12月24日水曜日

09. 黒羽の館代

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【現代読み】
黒羽(くろばね)の館代(かんだい) 浄坊寺(じょうぼうじ)何某(なにがし)かの方に音信(おとづ)る。
思いがけぬ主(あるじ)の悦び、日夜語り続けて、 其の弟 桃翠(とうすい)など云うが、
朝夕(あさゆう/ちょうせき) 勤め訪(とぶら)い、 自らの家にも伴いて、
親属(しんぞく)の方にも招かれ、 日を経(ふ)るままに、
一日(ひとひ)郊外に逍遥(しょうよう)して、「犬追う物」の跡を一見(いっけん)し、
那須の篠原(しのはら)を分けて、 「玉藻(たまも)の前(まえ)」の古墳を訪(と)う。

それより八幡宮に詣(もう)づ。
与一(よいち) 扇の的を射(い)し時、
 「別(べっ)しては我国の氏神(うじがみ)(しょう)八幡(はちまん)」と誓いしも、
此の神社にて侍ると聞けば、感応(かんのう)(こと)に しきりに覚えらる。
(くれ)れば 桃翠宅に帰る。

修験(しゅげん) 光明寺(こうみょうじ)と云う有り。
そこに招かれて、 行者堂(ぎょうじゃどう)を拝(はい)す。

  夏山に 足駄(あしだ)を拝む 首途(かどで)(かな)

【語句】
館代(かんだい): 城代家老と同じ。 参勤交代で主君が江戸に赴いている間、代わりを勤める役。
浄坊寺・何某(なにがし): 正確には「浄法寺」で、陣代家老・浄法寺・図書(ずしょ)・高勝。 俳号は桃雪。
その弟・桃翠: 実際は「翠桃」で、当時二十九歳。
朝夕: 「あさゆう」と「ちょうせき」両方の読み方があり、本によって読み方もまちまち。 朗読するなら「あさゆう」の方が、聞き手にとっては分かりやすいでしょう。
親属: 親族。

犬追う物: 垣で囲んだ馬場に犬を放して、それを馬上から弓で射るというもの。 元々は那須野に逃れた妖狐(九尾の狐)を射るための練習が起源とされる。
玉藻(たまも)の前(まえ): 「玉藻御前(たまもごぜん)」とも言う。 鳥羽上皇の寵愛を受けたが、陰陽師・安部晴明によって正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって那須野に逃れたとされる。
その後、八万にも及ぶ討伐軍によって殺された妖狐は毒気を放つ「殺生岩」(この後の11章に出てくる)と化し、近づく生き物を殺したと伝えられる。
  
八幡宮: 現在は大田原市にある「那須神社」。
与一(よいち):  那須与一(なすのよいち)のこと。 源義経に従軍し、屋島の合戦で遠くの小舟に掲げられた扇の的を射抜いたことで有名。
扇の的を射し時: 源平・屋島の合戦で、平家側から出した小舟の扇の的を、源氏方の那須与一が射抜いたこと。
(べっ)しては我国の氏神(うじがみ)(しょう)八幡(はちまん): 「別しては」は「特に」。 誓いの言葉とは、
「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくばあの扇の真中射させてたばせ給え」(平家物語)
「日本国中大小神祇、別しては下野の国日光、宇都宮、氏の御神那須大明神、弓矢の冥加あるべくは、扇の座席に定めて給え」(源平盛衰記)

修験: 修験(しゅげん)とは、俗に言う「山伏(やまぶし)」の事なり。 (菅菰抄)
行者堂: 修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)を祀る。 一本歯の高足駄を安置してある、とのこと。
 


2014年12月23日火曜日

10. 雲巌寺(四月五日)

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【現代読み】
当国(とうごく)雲岸寺(うんがんじ)の奥に、 
仏頂和尚(ぶっちょう・おしょう)山居跡(さんきょのあと)あり。

  「竪横(たてよこ)の 五尺に足らぬ 草の庵(いお)
     結ぶもくやし 雨なかりせば」

と、松の炭して岩に書き付け侍りと、いつぞや聞こえ給う。
其の跡見んと、雲岸寺に杖を曳(ひ)けば、
人々進んで 共に誘(いざ)ない、
若き人多く 道のほど打ち騒ぎて、
おぼえず彼(か)の梺(ふもと)に至る。

山は奥ある景色にて、谷道遥かに、松・杉黒く、苔したたりて、
卯月の天(てん) 今猶(いまなお)寒し。
十景尽きる所、 橋を渡って山門に入(い)る。

さて、かの跡はいづくのほどに、と
後ろの山に よじ登れば、
石上(せきしょう)の小庵(しょうあん) 岩窟に結び掛けたり。
妙禅師の死関(しかん)、法雲法師の石室を見るがごとし。

  木啄(きつつき)も 庵(いお)はやぶらず 夏木立(なつこだち)

と、とりあえぬ一句を 柱に残し侍(はべ)りし。

【語句】
当国(とうごく): 下野(しもつけ)の国。 現在の栃木県。
雲岸寺: 正しくは「雲巌寺」、または「雲岩寺」。 
仏頂和尚: 禅僧で、鹿島の根本寺の住職。 深川の臨川寺に逗留中に芭蕉と交遊し、しばしば雲岩寺にも滞在し、そこで没した。
結ぶもくやし 雨なかりせば: 縦横五尺(1.5m.)にも満たない草庵だが、雨さえ降らなければ禅僧の身にはそれすら不要なのに、の意。

松の炭して: たいまつの燃えさしの炭で、ということで、かりそめに書いたことをいう。
山は奥ある景色にて: 『古歌に 「見わたせば 麓ばかりに咲きそめて 花も奥ある みよしのの山」 と云う風情より出でたる詞(ことば)なるべし』(菅菰抄)
十景尽きる所: 「雲岩寺には十景、五橋、三水など佳境あり」、とあるが、十景は実は山門内にあるとのこと。

岩窟に結び掛けたり: 岩にもたせかけるようにしてある。
妙禅師の死関: 南宋時代の高僧・原妙禅師が、天目山の洞に入って「死関」という額を掲げ、十五年間戸を閉じて外に出ず座禅にふけったという。
法雲法師: 「法雲は法運の誤りなるべし。石室に籠り、馬糞を焚き、芋を煮て食いし僧にて、何れも禅録に委ねし」(菅菰抄)

木啄(きつつき): 現在は「啄木鳥」と書くのが一般的。 「寺つつき」の異名がある鳥で、何でも突(つつ)いて穴を開けてしまうその鳥でさえ、突くのを控えたのだろう、ということ。 
とりあえぬ一句: 即興でその場で詠んだ句。




2014年12月22日月曜日

11. 殺生石・遊行柳

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【現代読み】
(これ)より殺生石(せっしょうせき)に行く。
館代(かんだい)より馬にて送らる。
此の口付きの男(おのこ)、「短冊(たんざく)得させよ」 と乞(こ)う。
やさしき事を 望み侍(はべ)るものかなと、

  野を横に 馬牽(うまひ)き向けよ ほととぎす

殺生石は 温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰(やまかげ)にあり。
石の毒気(どくき) いまだ滅びず。
蜂・蝶のたぐい、 真砂(まさご)の色の見えぬほど重なり死す。

又、「清水流るる」の柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
此の所の郡主 戸部(こほう)(なにがし)の、
「此の柳 見せばや」など、折々に の給い聞こえ給うを、
いづく(何処)のほどにと思いしを、
今日 此の柳の陰にこそ 立ち寄り侍(はべ)りつれ。

  田一枚 植えて立去る 柳かな

【語句】
殺生石(せっしょうせき): 前出「09. 黒羽」でも触れているが、退治された「九尾の狐」がこの石に変わったという伝説がある。 現在も那須湯元温泉に史跡として残されており、有毒ガスの多い日は立ち入りが規制されるという。
口付きの男(おのこ): 馬の手綱をとって歩く馬方。
やさしき事を: 風流なことを。
馬引き向けよ: 「野原の横の方で時鳥(ほととぎす)が鳴いたので、そちらの方に馬を向けておくれ」ということで、風流を愛する馬方に応じた即興の句。

「清水流るる」の柳: 西行(さいぎょう)の句 「道の辺に 清水流るる柳陰 しばしとてこそ 立ち止まりつれ」(新古今集)。 謡曲「遊行柳」に脚色。
蘆野の里: 現在の栃木県那須郡那須町あたり。 奥州街道の宿駅「芦野本陣」があった。
田一枚 植えて立去る: 田を一区画植えるだけの時間。 西行ゆかりの柳の木をやっと訪れることができて、その木の下でそれだけの長い時を過ごした、ということで、自分が田植えをした訳ではない。



2014年12月21日日曜日

12. 白川の関(四月二十日)

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【現代読み】
心許(こころもと)なき日数(ひかず) (かさ)なるままに、
白河の関にかかりて 旅心(たびごころ)定まりぬ。
「いかで都へ」 と便り求めしも断(ことわ)りなり。

中にも此の関は三関(さんかん)の一(いち)にして、
風騒(ふうそう)の人、 心をとどむ。
秋風(あきかぜ)を耳に残し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、
青葉の梢(こずえ) (なお)あわれなり。
卯の花の白妙(しろたえ)に 茨(いばら)の花の咲き添いて、
雪にも越(こ)ゆる 心地(ここち)ぞする。

古人(こじん)(かんむり)を正し 衣装を改(あらた)めし事など、
清輔(きよすけ)の筆にも とどめ置かれしとぞ。

  卯の花を かざしに関の 晴れ着かな  曾良

【語句】
白河の関: 鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)と共に奥州三関の一つに数えられる関所だが、芭蕉の時代には既に関所は無く、その跡さえはっきりとしなかったらしい。→ 芭蕉と白河の関
「いかで都へ」:  平兼盛(たいらのかねもり)の歌「便りあらば いかで都へ告げやらむ けふ白河の関は越えぬと」(拾遺集)による。
(ことわり)也: 現在なら「理(ことわり)」で、「当然」とか「道理」、「もっともである」ということ。
風騒(ふうそう)の人: 詩文を作ったりする、風流な人。
 (原文にある「騒」の文字は、右側が「躁」の旁(つくり)になっているが、「IMEパッド」では出てこず、手持ちの漢和辞典にも載っていない)

秋風を耳に残し: 能因法師 「都をば 霞と共にたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」(前出)
紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして: 源頼政 「都には まだ青葉にて見しかども 紅葉散りしく 白河の関」
卯の花: 初夏に咲くウヅキ(空木)の白い花。
茨の花: 初夏に咲く「ノイバラ」の白い花。 「野バラ」とも言う。

古人(こじん)(かんむり)を正し、衣装を改め: 竹田大夫国行が能因法師の歌(前出)に敬意を表し、装束を改めて関を通ったという記述が、次の「清輔」の書に見られる。
清輔(きよすけ)の筆: 平安末期の歌学者・藤原清輔のことで、「筆」とはその著書「袋草子」のこと。
 『竹田大夫と云う者、陸奥(みちのく)に下向の時、白川の関過ぐる日は、殊に装束ひきつくろい向かうと云う。人問いて云わく、「何等(なんら)の故(ゆえ)ぞ哉(や)」。答えて云わく、「古曽部(こそべ)の入道(能因法師)の「秋風ぞ吹く白河の関」と詠まれたる所をば、いかでかけなりにては過ぎん」と云う。 殊勝の事かな』(「袋草子」)

かざしに関の晴れ着かな: 「04. 草加」の「只(ただ) 身すがらにと出立(いでた)ち侍(はべ)るを」でも分かるように、僧形の二人は着替えの晴れ着など持っているはずもない。 せめては道端に咲いている「卯の花」をかざして、晴れ着の代わりにしよう、ということ。 尤も、その関所も実際には存在しない。



2014年12月20日土曜日

13. 須賀川の等窮


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【現代読み】
とかくして越え行くままに、 阿武隈(あぶくま)川を渡る。
左に会津根(あいづね)高く、右に岩城(いわき)・相馬(そうま)・三春(みはる)の庄(しょう)、
常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地を境(さか)いて 山連なる。
影沼(かげぬま)と云う所を行くに、 今日は空曇りて物影映(うつ)らず。
須賀川(すかがわ)の駅に 等窮(とうきゅう)という者を尋ねて、四・五日とどめらる。

先ず「白川の関いかに越えつるや」と問う。
「長途の苦しみ、心身疲れ、且(か)つは風景に魂(たましい)奪われ、
懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしゅう思いめぐらさず。

  風流の 初めや奥の 田植え歌

無下(むげ)に越えんもさすがに」 と語れば、
(わき)・第三と続けて、三巻(みまき)となしぬ。

此の宿(しゅく)の傍(かたわ)らに、大きなる栗の木陰を頼みて、世を厭(いと)う僧有り。
(とち)拾う太山(みやま)もかくやと 閒(しづ)かに覚えられて、ものに書き付けはべる。 
その詞(ことば)、

  栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土(さいほうじょうど)に便りありと、
  行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の一生杖にも柱にも この木を用い給うとかや。

  世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

【語句】
影沼: 「白河と須賀川の間、道端也」とあり、現在の福島県須賀川市に影沼という地名が残っているとのこと。

「或る人の書に、影沼は空曇る日は人影見えず。 往昔(そのかみ)は遥かに望めば水波茫々として望むに涯(はて)無く、飛鳥(ひちょう)影を映し、馬蹄(ばてい)波を払う。按(あん)ずるに影沼は春夏の交、地気蒸し上りて日に映ずる、荘子に所謂(いわゆる)野馬(やば)也。 田間の遊気(ゆげ)なり。 是を遊糸(ゆうし)と云う。近く見れば積気なればなり。 土地の人、それを名づけて影沼と云う。」(「行嚢抄」)とあるので、今で言う「逃げ水」や「陽炎(かげろう)」のような現象でしょう。

等窮: 相楽(さがら)伊左衛門。 須賀川宿の駅長で、奥州俳壇の有力者。 当時52歳で、芭蕉より6歳年上ということになり、俳壇でも芭蕉の先輩格に当たる。 自筆本には「等躬」とあるらしい。
白河の関 いかに越えつるや: 関を越えた時にどんな句を詠んだか、という意。
風景に魂奪われ: 風景に魅了(圧倒)され。
懐旧に腸を断ちて: 「懐旧(かいきゅう)」は昔を懐かしむこと。 白河の関を詠んだ古歌や故事などを思って。 「腸を断ちて」は「断腸の思い」というより「感激で胸がいっぱいになって」くらいの感じでしょう。

風流の初め: 今回の旅で最初の本格的な句会を指し、同時にもてなしてくれた等窮への挨拶代わりともなっている。
脇・第三と続けて: 連句の二作目と三作目。 曾良の「俳諧書留」には「奥州岩瀬郡之内須賀川・相楽伊左衛門にて」として、
 「風流の 初めやおくの 田植え歌」(翁)
 「覆 盆子を折りて 我まうけ草」(等窮)
 「水せきて 昼寝の石や なほすらん」(曾良) ―とあり、更に歌が続いている。

世を厭う僧: 俗世を逃れて隠遁する僧侶。 等窮の家の近くの庵に住んでいた「可伸(かしん)」を指す。 俗名「矢内(やない)弥三郎」で、俳号は「栗斎(りつさい)」。
(とち)拾う太山も: 西行の 「山深み 岩にしたたる水とめん かつかづ(数々)落つる 橡(とち)拾うほど」(「山家集」) 太山(みやま)は、現在なら「深山(みやま)」でしょう。
この場合の「橡拾う」は「栃の木」に生る「栃の実」で、形は栗の実に似ているが、あく抜きをしないと苦くて食べられない。 昔は山村の重要な食料の一つであったとか。
(しづか): 「忙」の対とのことで、生活の閑雅なこと。 柿衛本では「静」。
ものに書き付けはべる: 懐紙に書きつける。

行基菩薩(ぎょうきぼさつ): 奈良時代の高僧。 天平17年に朝廷より「大僧正」の位を贈られ、のちに朝廷から「菩薩」の諡号を授けられたことから「行基菩薩」と呼ばれた。 その頃から「文殊菩薩の化身(けしん)」とも言われるようになった。
(の花): 初夏の梅雨入り前後に、穂状の地味な花を付ける。 栗の花より少し早めに穂を付ける「シイノキ」と同様に特有の匂いがするが、知らない人は傍(そば)を通っても、おそらく花の匂いとは気づかないはず。



2014年12月19日金曜日

14. 浅香山・忍ぶの里

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【現代読み】
等窮(とうきゅう)が宅を出(いで)て五里計(ごりばか)り、
檜皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れて あさか山あり。
(みち)より近し。 此のあたり沼多し。
かつみ刈る頃も やや近くなれば、
いづれの草を「花かつみ」とは云うぞと、
人々に尋(たづ)ね侍れども、更に知人(しるひと)なし。
沼を尋ね、人に問い、「かつみ・かつみ」と尋ね歩きて、
日は山の端(は)にかかりぬ。
二本松より右に切れて、「黒塚(くろづか)の岩屋」 一見(いっけん)し、
福島に宿(やど)る。

明くれば、「しのぶ・もじ摺(ず)りの石」を尋ねて、忍ぶの里に行く。
遥か山陰(やまかげ)の小里(こざと)に、石 半(なか)ば埋(うづ)もれてあり。
里の童部(わらべ)の来たりて教えける。
「昔は此の山の上に侍(はべ)りしを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)を荒らして、
此の石を試(こころ)み侍るを憎みて、此の谷に突き落とせば、
石の面(おもて) 下ざまに伏(ふ)したり」と云う。
さもあるべき事にや。

  早苗とる 手もとや昔(むかし) しのぶ摺(す)

【語句】
檜皮の宿: 奥州街道の宿駅。 現在の福島県・郡山市・日和田町。 檜皮は昔「ひわた」と読んだらしい。
あさか山: 歌枕で、現在の安積山公園になっている丘とのこと。
花かつみ: 「陸奥(みちのく)の 安積(あさか)の沼の花かつみ かつ見る人に 恋(こ)ひやわたらん」(677: よみ人しらず「古今和歌集」)を念頭に置いているようだが、どんな草なのか現在もはっきりとしない。

昔、藤原実方(ふじわらのさねかた)が陸奥(みちのく)の守(かみ)となった時のこと。 五月五日の端午の節句には菖蒲を軒に葺(ふ)くものなのに、土地の人たちにはそうした習慣が無く、菖蒲すら生えていないというので、「あさかの沼には花かつみというものがあるというから、それを葺(ふ)くように」と言ったことから、陸奥の国では端午の節句に菰(こも)を葺くようになったという。

「能因法師集」に、「こもの花 咲きたるを見て」として、
 「花かつみ おひたる見ればみちのくの あさかの沼のここちこそすれ」―とあることから、昔は「真菰(まこも)」であったとする説もあり。
「かつみ草、花しょうぶ、いづれともしれず。 只アヤメなりと云い、真菰(まこも)なりと云い、説々多し」【陸奥衛(むつちどり)】

二本松: 現在の福島県安達郡・二本松町。 日和田より北に10km。
黒塚の岩屋: 安達ケ原の岩屋に住み、旅人を殺して食っていたという、伝説の鬼婆を葬った塚のこと。
 「白河の関」の章で、「いかで都へ」という句が出てくる平兼盛に、
 「陸奥(みちのく)の 安達が原の黒塚に 鬼籠もれりと 言ふはまことか」という歌がある。

しのぶ・もぢ摺(ず)りの石: 「もじ摺り」は福島県福島市に古代から伝わる染色技法で、これはその伝説となった石のこと。 福島市の文知摺り観音の境内に、その巨石があるという。
 「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり たれ(誰)ゆゑに 乱れんと思ふ 我ならなくに」(724: かはらの左大臣「古今和歌集」)の句を念頭において石を訪ねているらしい。

麦草を荒らして、此の石を試み: 「もじ摺り」の噂話を聞いた通りすがりの人たちが、この石にある模様に布を当て、麦の葉をこすり付けて独特の模様を染めようと試したことから、麦畑が荒らされた、―ということでしょう。
さもあるべき事にや: そんなこともあるかもしれない。 そんなことがあるだろうか。