2014年11月21日金曜日

22. 塩竃神社(五月九日)

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【現代読み】
早朝、 塩竈(しおがま)の明神(みょうじん)に詣(もう)づ。 
国主(こくしゅ)再興(さいこう)せられて、 宮柱(みやばしら)太敷(ふとし)く、 
彩椽(さいてん)きらびやかに、 石の階(きざはし) 九仭(きゅうじん)に重なり、 
朝日 朱(あけ)の玉垣(たまがき)を輝かす。 
かゝる道の果て、 塵土(じんど)の境(さかい)まで、 
神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗(ふうぞく)なれと、 
いと貴(とうと)けれ。
 
神前に 古き宝燈(ほうとう)有り。 鉄(かね)の扉の面(おもて)に、 
「文治(ぶんじ)三年 和泉三郎(いずみのさぶろう)寄進」 と有り。 
五百年来の俤(おもかげ)、 今 目の前に浮かびて、 そぞろに珍し。 
(かれ)は勇義忠孝(ゆうぎ・ちゅうこう)の士(し)也。 
佳名(かめい)今に至りて、 慕(した)わずといふ事なし。
誠に 「人能(ひとよ)く道を勤(つと)め、 義(ぎ)を守るべし。
名もまた是(これ)に従(したが)う」 と云へり。

日 既(すで)に午(ご)に近し。 船を借りて松嶋に渡る。
その間(かん)二里余り、 雄嶋(おじま)の磯(いそ)に着く。

【語句】
塩竃の明神: 塩竃神社。 陸奥国一宮で、同一境内に志波彦神社(しわひこじんじゃ)も鎮座する。
国主再興せられて: 慶長十二年(1607年)に藩主・伊達政宗が修造したことを指す。
宮柱太敷く:  「太敷く立てて」の誤用とのこと。
彩椽きらびやかに: 「采椽(彩ったクヌギの垂木)」を転用した造語らしい。
石の階 九仭に重なり: 表坂(表参道)にある石段で、現在202段あるとか。
「九仭」の「仭(じん)」は周尺で、両手を広げた程の長さらしい。「九」は数の多いものを表す言葉として使われる。
朱の玉垣: 神社の周囲にめぐらされた朱色に塗られた垣。 「玉」は美称。

神前に古き宝燈あり: 当時は表坂の石段を登りきった左側にあったとか。 「文治三年」は作られた当時のことで、芭蕉の頃は寛文年中に再興されたもの。
和泉三郎: 藤原忠衡(ふじわらのただひら)のことで、藤原氏三代当主・藤原秀衡の三男。 
文治三年: 西暦1187年。 元禄二年の502年前で、兄・泰衡の軍と戦って亡くなる二年前のこと。
渠は勇義忠孝の士也:  異母兄である藤原泰衡が源義経を攻めた時、父・秀衡の遺言を守って義経に味方し、兄・泰衡と戦って最期は自害したことを指す。
名もまた是に従う: 「動而得謗、名亦随之(名も亦た之に随う)」は韓愈に出てくる言葉だが、それ以外は出典不明。 



2014年11月20日木曜日

23. 松嶋(昼)

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【現代読み】
(そもそも) ことふりにたれど、 松嶋は扶桑(ふそう)第一の好風(こうふう)にして、
(およ)そ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥(はじ)ず。
東南より海を入れて、 江の中(うち) 三里、
浙江(せっこう)の潮(うしお)を湛(たた)う。 嶋々の数を尽して、 
(そばだ)つものは天を指(ゆび)さし、 伏すものは波に匍匐(はらば)う。 
あるは二重(ふたえ)にかさなり、 三重(みえ)に畳(たた)みて、 
左に分かれ、 右に連(つら)なる。 
(おえ)るあり、 抱(いだけ)るあり、 児孫(じそん)愛すがごとし。 

松の緑こまやかに 枝葉(しよう)汐風(しおかぜ)に吹きたわみて、 
屈曲(くっきょく)おのずから 矯(た)めたるがごとし。 
その気色(けしき) 窅然(ようぜん)として、 美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)う。 
ちはや振(ふ)る 神の昔(むかし)、 大山祇(おおやまづみ)のなせる業(わざ)にや。 
造化(ぞうか)の天工(てんこう)、 いづれの人か 
筆を振るい、 詞(ことば)を尽くさむ。

【語句】
ことふりにたれど: 言いふるされたことだが。
 『源氏物語・枕草子などにことふりにたれど、おなじ事また今さら言はじとにもあらず』(「徒然草」十九段)
扶桑第一の好風: 「扶桑(ふそう)」は昔の中国で東方海上にある日の出づる国にあると言われた神木のことで、それが転じて「日本国」を指すようになった。 「好風(こうふう)」は「好い風景」を略した言葉。
洞庭・西湖を恥ず: 洞庭湖西湖 のことで、どちらも風光明媚な中国の景勝地。 古来さまざまな詩文にうたわれ、絵画にも描かれてきた。 それらと比べても見劣りがしない、ということ。
浙江の潮を湛う: 浙江省を流れる河川「銭塘江(せんとうこう)」のこと。 河口付近は潮の干満の差が激しく、南米アマゾン川のポポロッカのように海の水が川に逆流する海嘯(かいしょう)が発生することで知られる。

窅然(ようぜん)として: 当時の使い方としては、「うっとりするさま」、「ほれぼれとするさま」とある。 「(よう)」は穴と目で、くぼんだ目の意。 現代の辞書では、1.「奥深く遠い様」、2.「嘆いてぼんやりしている様」となる。
美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)う: 
 蘇軾(そしょく、又は蘇東坡)が、西湖の美しさを伝説の美女・西施(せいし)にたとえた詩「飲湖上初晴後雨」の、
『欲把西湖比西子 淡粧濃抹總相宜 (西湖をもって西施に比せんと欲すれば 淡粧濃抹すべて相よろし)』
意味:「西湖の様子を西施に比べれば、薄化粧も厚化粧も(晴れても雨でも)全て素晴らしい。」―に比している。
ちはや振(ふ)る: 「神」に掛かる枕詞(まくらことば)。
大山祇(おおやまづみ): 「室の八嶋」に出てきた「木の花のさくや姫」の父親で、「大いなる山の神」という意味になる。



2014年11月19日水曜日

24. 松嶋(夜)

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【現代読み】
雄嶋(おじま)が磯(いそ)は地続(ちつづ)きて 海に出(いで)たる島也。 
雲居禅師(うんご・ぜんし)の別室の跡、 坐禅石(ざぜんせき)など有り。 
(はた)、松の木陰(こかげ)に世を厭(いと)う人も稀々(まれまれ)見え侍(はべ)りて、
落穂(おちぼ)・松笠(まつかさ)など 打ち煙(けぶ)りたる草の庵(いおり)
(しず)かに住みなし、いかなる人とは 知られずながら、
(ま)づ なつかしく立ち寄るほどに、 
月 海に映(うつ)りて、 昼の眺め 又 改(あらた)む。
 
江上(こうしょう)に帰りて 宿を求むれば、 
窓を開き 二階を作りて、
風雲の中に 旅寝(たびね)するこそ、
あやしきまで 妙(たえ)なる心地はせらるれ。

 松島や 鶴に身をか(借)れ ほとゝぎす  曾良

(よ)は口を閉じて 眠(ねむ)らんとして いね(寝)られず。  
旧庵を別るる時、 素堂(そどう) 松島の詩あり。 
原安適(はら・あんてき)、 松が浦島(うらしま)の和歌を贈らる。 
袋を解きて 今宵(こよい)の友とす。  
(かつ)、 杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句(ほっく)あり。

【語句】
雄嶋が磯: 歌枕として知られる小島。 実際は地続きではなく、赤い「渡月橋」で結ばれている。
雲居禅師: 禅僧。 伊達政宗が再興した瑞巌寺に住職として招かれるが三度断わり、政宗の死後にやっと瑞巌寺に入り、復興に努めたので中興開山と言われた。
別室の跡: 大淀三千風(おおよど・みちかぜ)の「松嶋眺望集」に、「把不住軒とて、雲居和尚禅堂あり」とある。
落穂・松笠など打ち煙りたる: 松笠は燃料、落穂は本来収穫から落ちこぼれた稲穂のことだが、ここではタダで手に入る燃料としての落ち葉ということでしょう。 薪のような良質の燃料ではないので、くすぶって煙が立ちこめている。
草の庵: これも「松嶋眺望集」に、「松吟菴とて道休者の室あり」とあるから、芭蕉が三千風の著書をガイドブックのように読んでいたことが分かる。

月 海に映りて: 松嶋は月の名所でもあり、芭蕉が「松嶋の月」を楽しみにしていたことは「序章」や兄宛ての手紙にも書かれている。
「曾良旅日記」によると、この日は旧暦九日で快晴だったから、半月よりも少し膨らんだ月が浮かんでいたはず。
窓を開き 二階を作りて: 「海に面して大きな窓があり、二階建てになっている旅館」―という解釈が一般的。 

予は口を閉じて: 「何も言わず」、つまり句作を断念して、ということ。 代わりに曾良作という句を載せているが、「曾良旅日記」や「俳諧書留」にこの「松嶋や ・・・」の句は出てこない。
『師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて叶不(かなはず)。・・・師、まつ嶋に句なし。大切の事也』 服部土芳「三冊子」(黒冊子)
その服部土芳編「蕉翁文集」には、『島々や 千々にくだけて 夏の海』 という句が収められているとのこと。



2014年11月18日火曜日

25. 瑞巌寺(五月十一日)

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【現代読み】
十一日 瑞巌寺(ずいがんじ)に詣(もう)づ。 
当寺(とうじ)三十二世の昔、 
真壁(まかべ)の平四郎(へいしろう) 出家(しゅっけ)して入唐(にっとう)、 
帰朝(きちょう)の後(のち) 開山(かいさん)す。 

(そ)の後(のち)に 雲居禅師(うんご・ぜんし)の徳化(とくげ)に依りて、 
七堂(しちどう)(いらか) 改りて、 金壁荘厳(こんぺき・しょうごん) 光を輝かし、
仏土成就(ぶつど・じょうじゅ)の大伽藍(だいがらん)とは なれりける。
(か)の見仏聖(けんぶつひじり)の寺は いづくにやと慕(した)わる。

【語句】
瑞巌寺(ずいがんじ):  松島にある古刹で、古くは松嶋寺とも称された。
真壁平四郎: 法身(ほっしん)禅師の俗名で、常陸国(茨城県)真壁郡の出身。 出家したエピソードとして、
 「平四郎が領主の下僕を勤めて頃、宴のあった冬の日に履き物を懐(ふところ)で温めて領主を待っていたところ、履き物を尻に敷いていたと誤解されて額を割くほど殴られたという。(秀吉と信長にもそんな話があったが、結果が違う。)
そのことをきっかけに平四郎は出家し、宋に渡って九年間修行した後に帰朝した。

入唐(にっとう): 唐の国に渡る事。 正確には「入宋」だが、中国を唐と呼んでいた名残りでしょう。
見仏聖: 見仏(けんぶつ)上人のこと。 松嶋の雄島に庵を結び、十二年間の苦行の間に六万部の法華経を読誦したといわれる。
「西行上人、能登の切浦にてこの聖にあひし後、この聖を慕ひて松嶋まで来られしことなどあれば、彼の とは申されたり」(撰集抄)



2014年11月17日月曜日

26. 石の巻(五月十二日)

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【現代読み】
十二日 平和泉(ひらいずみ)と心ざし、 
姉歯(あねは)の松、 緒絶(おだ)えの橋など、 聞き伝えて、 
人跡(じんせき)(まれ)に 雉兎蒭蕘(ちと・すうじょう)の往(ゆき)かう道 
そことも分(わ)かず、 終(つい)に路(みち)踏みたがえて、
石の巻という 湊(みなと)に出(い)づ。
 
「こがね花咲く」 と詠(よ)みて奉(たてまつ)りたる 金華山(きんかざん)、 
海上に見わたし、 数百の廻船(かいせん)入江につどい、 
人家(じんか) 地をあらそいて 竃(かまど)の煙 立ち続けたり。 
思いがけず 斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、 
宿借らんとすれど、 更に宿貸す人なし。
 
(ようよ)う まどしき小家(こいえ)に一夜を明かして、 
明くれば又 知らぬ道迷い行く。 
(そで)の渡り、 尾ぶちの牧(まき)、 真野(まの)の萱原(かやはら)など、 
よそ目に見て、 遥かなる堤(つつみ)を行く。 
心細き長沼に沿うて 戸伊摩(といま)と云う所に一宿して、 
平泉に到る。 その間(かん)廿(二十)余里ほどと おぼゆ。

【語句】
雉兎蒭蕘(ちと・すうじょう): 「雉兎(ちと)」は「雉(キジ)」と「兎(ウサギ)」、「蒭蕘(すうじょう)」は「蒭(まぐさ)」と「柴(しば)」のこと。 (「蒭」は「芻」の俗字)

この難解な言葉は孟子・巻之一「梁惠王章句下2」に出てくるので、蛇足ながら引用しておくと、
『齊宣王問曰、文王之囿、方七十里、有諸』
斉の宣王が(孟子に)質問して、「(周の)文王の囿(ゆう:御苑)は七十里四方もあったというのは本当でしょうか」

『孟子對曰、於傳有之』 (中略) 『民猶以爲小也』
孟子がそれに対し、「本当であったと伝えられています」 (ただ) 「民衆はそれでもまだ小さいと考えていました」

『寡人之囿、方四十里、民猶以爲大、何也』
王: 「(それに比べ)私の囿(ゆう)は四十里四方なのに、民衆がそれを大きいと言っているのはなぜでしょう」

『文王之囿、方七十里、芻蕘者往焉、雉兔者往焉、與民同之、民以爲小、不亦宜乎』
孟子: 「文王の囿(ゆう)は七十里四方あったと言っても、牧草や柴を刈る者、鳥獣を狩る者たちもそこを往き来し、民とその御苑を分かち合っていた訳で、民衆がそれを小さいと考えたのは、もっともなことでしょう」
―ということで、「蒭蕘、雉兎の往き来う」の「」を略しているから、意味の分からない文章になっている。

「こがね花咲く」と詠めり: 
「天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く」 大伴家持(おおとものやかもち) 万葉集・巻十八 (4097)

宿借らんとすれど、更に宿貸す人なし: かなり冷たい町という印象を受けるが、「曾良旅日記」によると、
 『小野と石ノ巻の間、矢本新田と云う町にて喉乾き、家毎に湯を乞へ共与ず。 刀さしたる通行人、年五十六・七、この躰(てい)を憐みて、知人の方へ壱町(110m.)程立ち帰り、同道して湯を与う可き由を頼む。又、石の巻にて新田町、四兵衛へと尋ね、宿借る可き之由云て去る。名を問、根古(ねこ)村、こんの源左衛門殿。教えの如く、四兵衛を尋て宿す。着の後、小雨す。頓(やが)て止む。』―とあり、石の巻にも親切な人たちのいたことが分かる。

まどしき小家(こいえ): 「貧(まど)し」(古語:貧しい)―というのは、一晩泊めてくれた四兵衛さんの家でしょう。



2014年11月16日日曜日

27. 平泉(五月十三日)

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【現代読み】
三代(さんだい)の栄耀(えよう) 一睡(いっすい)の中(うち)にして、
大門(だいもん)の跡は 一里こなたに有り。
秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)に成りて、 金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。
(ま)づ高館(たかだち)にのぼれば、 
北上川(きたかみがわ)南部より流るる大河(たいが)也。
衣川(ころもがわ)は和泉が城(いずみがじょう)を巡(めぐ)りて、 
高館の下にて 大河に落ち入(い)る。
泰衡(やすひら)らが旧跡は、 衣が関(ころもがせき)を隔(へだ)てて、 
南部口(なんぶぐち)をさし堅(かた)め、 夷(えぞ)を防ぐと見えたり。

(さて)も義臣(ぎしん)すぐって この城(しろ)に籠(こも)り、 
功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。
「国破れて山河(さんが)あり、 城(しろ)春にして草(くさ)青みたり」 と、
笠打ち敷(し)きて、 時の移るまで泪(なみだ)を落し侍(はべ)りぬ。

 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

 卯の花に 兼房(かねふさ)見ゆる 白毛(しらが)かな  曾良

【語句】
三代の栄耀: 奥州藤原氏藤原清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の親子三代を指す。 源義経を匿(かくま)ったことを理由に鎌倉勢の大軍に攻められ、四代目・藤原泰衡の代で滅亡した。→ 平泉

一睡の中にして: 「邯鄲夢の枕」や「一炊の夢」など色々なタイトルの話があるが、『趙(ちょう)の首都・邯鄲(かんたん)に住む盧(ろ)という書生が、休憩で立ち寄った宿で道士と語り合っていた時のこと、宿の主人が蒸していた黄粱(きび)が炊けるまでのわずかな眠りの間に、人生の栄枯盛衰(えいこ・せいすい)をたっぷりと味わう一生の夢を見た』―というエピソードに基づいていて、「一炊」と「一睡」を掛けた見事な表現。
元の話は、唐の玄宗皇帝時代の沈既済(しん・きせい)の伝奇小説「枕中記(ちんちゅうき)」によるもの。 岩波文庫「唐宋伝奇集(上)」の三話目「邯鄲・夢の枕―枕中記」に7ページの短編小説として収録されている。

大門の跡: 政庁となった平泉館(ひらいづみのたち)の南大門跡。  平泉館跡は、現在の 柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)と推定される。
秀衡が跡: 三代・藤原秀衡の居館「伽羅御所」の跡。 
金鶏山: 秀衡が富士山に模して築かせた山で、山頂に雌雄一対の金鶏を埋めたと伝えられる。 他はみな戦火で焼失してしまった。

高館(たかだち): 衣川館(ころもがわのたち)とも呼ばれ、源義経の居館となっていた。 鎌倉側の圧力に屈した四代目・泰衡によって攻められ、義経が自害に追い込まれた最期の場所。
北上川: 岩手県と宮城県にまたがって流れる東北最大の河川。
和泉が城: 藤原忠衡(塩竃明神に宝鐙を寄進した和泉三郎のこと)の居城。 「彼は勇義忠孝の士なり」と芭蕉は「塩竃明神」の段で綴っている。

義臣(ぎしん)すぐって: 忠義をつくす家臣を選(すぐ)って。  特に最期まで義経に忠義をつくした武蔵坊弁慶の壮絶な死に様は、「弁慶の立ち往生」として語り草となっている。
国破れて山河あり: 杜甫の有名な詩「春望」の一節を引用したもの。
『国破山河在 (国破れて山河在り) 城春草木深 (城春にして草木深し)』
―を少し変えている。 玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かしている間に政治が混乱し、安史の乱を招いて、都の長安が戦火で荒廃した時のことを歌ったもの。

兼房: 十郎権頭兼房(じゅうろう・ごんのかみ・かねふさ)。 伝奇物語『義経記』にのみ登場するようだが、実在しない架空の人物である。 弁慶同様その壮絶な最期が語り草となっていて、白く揺れる卯の花に、白髪を振り乱して雄々しく戦った兼房の姿を重ね合わせている。
(この句も「曾良旅日記」や「俳諧書留」には見当たらないので、曾良作かどうかは不明)



2014年11月15日土曜日

28. 中尊寺・金色堂

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【現代読み】
(か)ねて 耳驚(みみおどろ)かしたる 二堂開帳(にどう・かいちょう)す。
経堂(きょうどう)は 三将の像を残し、
光堂(ひかりどう)は 三代の棺(ひつぎ)を納め、 
 三尊の仏を 安置(あんち)す。

七宝(しっぽう)散り失せて、
(たま)の扉 風に破れ、
(こがね)の柱 霜雪(そうせつ)に朽ちて、
既に頽廃空虚(たいはい・くうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、
四面(しめん)新たに囲みて、 甍(いらか)を覆(おお)いて風雨を凌(しの)ぎ、
暫時(しばらく) 千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

 五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう)

【語句】
中尊寺: 奥州藤原氏ゆかりの寺として有名で、金色堂など多くの文化財を有する。
二堂開帳す: 光堂金色堂)と、経堂(大長寿院・所有)のこと。 「開帳」は本来、厨子の扉を開いて中の仏を大衆に拝ませること。
「曾良旅日記」によると、『十三日、天気明。己の刻より平泉へ趣く。高館・衣川・衣の関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉が城・秀平(衡)やしき等を見る。経堂は別当留守にて開か不。金鶏山見る・・・』―とあり、経堂は開かなかったようである。

経堂は三将の像を残し: 実際に経堂に安置されているのは、「木造・騎獅文殊菩薩 及脇侍像5躯」―ということで獅子に跨った文殊(もんじゅ)菩薩像とその他の像のようで、経堂は開いていないので間違えたのでしょう。
四面新たに囲みて甍を覆い: 金色堂を保護するために設けられた覆堂(おおいどう)、または鞘堂(さやどう)のこと。 芭蕉が見たものは南北朝時代のもので、現在は鉄筋コンクリート製となっている。

2014年11月14日金曜日

29. 尿前の関(五月十五日)

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【現代読み】
南部道(なんぶみち)(はる)かに見やりて、岩手の里に泊る。

小黒崎(おぐろさき) みづの小嶋(こじま)を過ぎて、
鳴子(なるご)の湯より 尿前(しとまえ)の関にかかりて、
出羽(でわ)の国に越えんとす。
此の路(みち) 旅人(たびびと)(ま)れなる所なれば、
関守(せきもり)に怪(あや)しめられて、
(ようよう)として関を越す。

大山を登って 日既(ひ・すで)に暮れければ、
封人(ほうじん)の家を見かけて 宿(やど)りを求む。
三日 風雨 (ふうう)荒れて、 よしなき山中(さんちゅう)に逗留(とうりゅう)す。

 蚤虱(のみ・しらみ) 馬の尿する 枕(まくら)もと

【語句】
鳴子の湯: 一般的には「なるこ」だが、地元の発音では「なるご」と濁ることも多いという。
尿前(しとまえ)の関: 現在の堺田越(さかいだごえ)と呼ばれる峠にあった関所の内、仙台藩が設けていた関所。 新庄藩が設けていたのが笹森関所で、曾良によると尿前の関の二日後に笹森の関所を越えている。
封人(ほうじん): 関所の番人。

「曾良旅日記」では、五月十五日に尿前(しとまえ)の関を通っていて、
十六日「堺田(さかいだ)に滞留。大雨、宿(和泉庄や、新右衛門兄也)」
十七日「快晴。堺田を立。一里半、笹森(ささもり)関所有。新庄領。関守(せきもり)は百姓に貢(みつぎもの)を宥(ゆる)し置也(おくなり)」―とあり、実際の山中逗留は二日間となっている。

馬の尿する: 「尿」の読み方は、「しと」と「ばり(いばり)」の両方があるのでややこしい。
「岩波文庫」と「講談社学術文庫」の読みは「しと」で、角川文庫では「ばり」となっている。
角川文庫版「おくのほそ道の「発句評釈」では、その問題をかなり詳しく解説しているのでそちらを参照)

「芭蕉自筆・奥の細道」 (クリックで拡大)

「角川文庫」では、曾良本、野坡(やば)本の両方に「ハリ」の傍訓が確認されていることを挙げていて、近年発見された「芭蕉自筆・奥の細道」(通称「野坡本」)とされる影印復刻本にも「バリ」と傍訓が振ってある(上の画像を参照)。 

この画像だけを見るといかにも「歴史的発見」の様に思われるが、良く考えてみると濁音表記の無い本文中に何故かそこだけ濁点の振り仮名が付けてあるのも不自然な感じを受けるし、長い年月の間に多くの人の手を経た中で、おそらく他の誰かが後から付けたものと考える方が自然なはず。 (図書館の本の、鉛筆による「書き込み」を参照)

この「芭蕉自筆」と称される影印(写真画像)の中で、他に濁点が振ってある箇所は「最上川」の段の「てん・はやさ」の二箇所だけで、元禄時代に製版された井筒屋本には当然ながら濁点も振り仮名も付いていない。 (日本語の文章に句読点や濁点が入るのは、一般には明治以降のこと)

しかし、こうした枝葉末節に関わるのは学者の方々にお任せしておいて、この問題はここまでとしておきましょう。
そして一読者としてはもっと大切な根幹、芭蕉翁が残してくれた優れた精神の遺産を味わいたいと思います。



2014年11月13日木曜日

30. 山刀伐(なたぎり)峠

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【現代読み】
(あるじ)の云う、
(これ)より出羽(でわ)の国に大山(おおやま)を隔(へだ)てて、
道 定(さだ)かならざれば、道しるべの人を頼みて越(こゆ)べき由(よし)を申す。 
「さらば」と云いて 人を頼み侍(はべ)れば、
究竟(くっきょう)の若者、 反脇指(そりわきざし)を横たえ、
(かし)の杖を携(たづさ)えて、 我々が先に立ちて行く。 
今日こそ必ず 危(あや)うき目にも遭(あ)うべき日なれと、 
(から)き思いをなして 後について行く。 

(あるじ)の云うに違(たが)わず、
高山森々(こうざん・しんしん)として 一鳥(いっちょう)声聞かず、 
木の下(このした) 闇茂り合いて、 夜行(よるゆ)くがごとし。
雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して、 篠(しの)の中 踏み分け踏み分け、
水を渡り 岩に蹶(つまづ)いて、 肌(はだえ)に冷たき汗を流して、
最上(もがみ)の庄に出(い)づ。
 
かの案内(あない)せし男(おのこ)の云うよう、 
「この道必ず不用(ぶよう)の事有り。 恙(つつが)のう送りまいらせ 仕合(しあ)わせしたり」 
と、 喜びて別れぬ。 
後に聞きてさえ、 胸とどろくのみ也。

【語句】
山刀伐(なたぎり)峠: 山形県の最上町と尾花沢市を結ぶ峠道で、「おくのほそ道」の難所の一つ。 
さらば」(されば)と云いて: 「それなら」、「それでは」と言って。
究竟(くっきょう): 現代なら「屈強(くっきょう)」で、力の強いこと。 
(現代の漢和辞典での読みは「きゅうきょう」で、意味も「畢竟(ひっきょう)」と同じ「結局」となっている)

雲端につちふる: 杜甫:『已入風磑霾雲端』「已(すで)に風磑(ふうとう)に入て、雲端(うんたん)に(つちふ)
「既に風の挽き臼(砂嵐)に巻き込まれてしまい、雲の上から巻上げられた土埃が(雨の様に)降って来る」

「曾良旅日記」によると、「十七日 快晴。堺田を立つ。・・・一ばね(刎)と云う山路にかかり、此の所に出。堺田より案内者に荷持たせ越す也。・・・関屋とやら云う村也。正厳~尾花沢の間、村有り。是、野辺沢へ分る也。正ごんの前に大夕立に逢。昼過ぎ、清風に着き、一宿す」―とある。

不用(ぶよう)の事有り: 「不用」は「不用心」ということで、山賊などが出て害を及ぼすこと。
(つつが)なく: 何事も無く、無事に。 
仕合(しあわ)せしたり: 幸(さいわ)いでした。




2014年11月12日水曜日

31. 尾花沢(五月十七日)

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【現代読み】
尾花沢(おばなざわ)にて 清風(せいふう)と云ふ者を尋(たづ)ぬ。
かれは富める者なれども、 
(こころざし) (いや)しからず。
都にも折々(おりおり)通いて、 
さすがに 旅の情(なさけ)をも知りたれば、
日比(ひごろ)とどめて、 長途(ちょうど)のいたわり、
さまざまに もてなし侍(はべ)る。

 涼しさを 我が宿にして ねまるなり

 (は)い出でよ 飼屋(かいや)が下の 蟾(ひき)の聲(こえ)
 眉掃(まゆは)きを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 蚕飼(こが)いする 人は古代(こだい)の 姿かな 曾良

【語句】
尾花沢: 現在の山形県尾花沢市。 
清風(せいふう): 鈴木清風。 本名:鈴木道祐。 紅花問屋・島田屋の豪商で、金融業も営んでいた。 芭蕉や曾良とは貞享二年以来江戸での付き合いがあり、当時三十九歳。
かれは富める者なれども、志卑しからず: 「昔より、賢き人の富めるは稀なり」(「徒然草」十八)
都にも折々通いて: 「心の花の都にも、二年(ふたとせ)三年(みとせ)住みなれ、古今俳諧の道に踏み迷ふ」(「おくれ双六〈すごろく〉」清風自序)

ねまる也: 「ねまる」と云ふ詞(ことば)に二義あり。 北国の「ねまる」は他国にて居(すわ)ると云う詞に当たるべし。(「菅菰抄」)―ということで、「他人の家であることを忘れ、くつろいで座る」ということ。 
尿前(しとまえ)の関から山刀伐(なたぎり)峠を苦労して越えてきた芭蕉にとって、豪商・清風の家での歓待は有難いものであったはず。
飼屋(かいや): 蚕(かいこ)の養蚕(ようさん)室を表す尾花沢の言葉とのこと。 「ねまる」や「かいや」など、土地の言葉を使っているところに清風に対する気持ちがうかがえる。

眉刷(まゆは)き: 白粉(おしろい)を付けた後に眉毛を払う小さな刷毛(はけ)のこと。
紅粉の花: 紅花の形から、眉刷きを連想しているということで、これも紅花問屋の清風と関係がある言葉。
ちなみに雪の多い尾花沢は養蚕(ようさん)は盛んに行われていたが、紅花の栽培はあまり行われていなかったそうで、その代わり収穫された紅花の集散地として栄えたという。
蚕飼(こが)いする: 養蚕(ようさん)の歴史は古く、日本には弥生時代に伝えられたとされる。

尾花沢では清風宅を始め、地元の裕福な俳人たちとの交歓を重ねたようで、次の立石寺に向かうまで十日ほど滞在している。 
  「曾良旅日記」
十七日 (山刀伐峠越え)昼過ぎ、清風に着き、一宿す。
十八日 昼、寺にて風呂有り。小雨す。それより養泉寺移り居。
十九日 素英(村川伊左衛門・談林系の俳人)、なら茶賞す。 夕方小雨す。 
二十日 小雨。
二十一日 朝、小三良(富豪・鈴木宗専の息子、俳号:東水)へ招被(まねかる)。同晩、沼沢所左衛門(庄屋・俳号:遊川)に招被。此の夜、清風に宿。
二十二日 晩、素英に招被。
二十三日の夜、秋調(歌川仁左衛門)に招被(まねかる)。 日待(潔斎して徹夜して日の出を拝み、祈願する行事)也。 その夜、清風に宿す。
二十四日の晩、一橋(杏花とも)、寺にて持賞(もてな)す。十七日より終日晴明の日なし。

○秋調 (歌川)仁左衛門。 ○素英 村川伊左衛門。 ○一中(尾花沢の地蔵院・住職) 町岡素雲。 ○一橋 田中藤十良。 ○ 遊川 沼沢所左衛門。 ○東陽(秋調の父・医者) 歌川平蔵。 ○大石田、 一栄(大石田の船問屋) 高野平右衛門。 ○同、川水(大石田の大庄屋) 高桑加助。 ○上京(当時、京都に旅行中の意)、 鈴木宗専(富豪)、俳名:似林。 息(子): 小三良。 新庄、渋谷甚兵(新庄の富商)へ、風流(俳諧)。

二十五日 折々小雨す。 大石田より川水(前出)入来、連衆故障有て俳(諧)なし。夜に入、秋調(前出)にて庚申待(庚申〈かのえさる〉の日に青面金剛・猿田彦などを祭り、徹夜で俳諧等をして寝ずに過ごすこと)にて招被(まねかる)。
二十六日 昼より遊川(前出)に於て東陽(前出)持賞(もてな)す。此の日も小雨す。
―とあり、五月二十七日(現在の7月13日)になってやっと晴れてから立石寺へ趣いている。




2014年11月11日火曜日

32. 立石寺(五月二十七日)

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【現代読み】
山形領に 立石寺(りゅうしゃくじ)と云う山寺あり。
慈覚大師(じかく・だいし)の開基(かいき)にて、 殊(こと)に清閑(せいかん)の地なり。
一見(いっけん)すべきよし、 人々の勧(すす)むるによりて、
尾花沢よりとって返し、 その間 七里ばかりなり。
日 いまだ暮れず。

(ふもと)の坊に宿借(やどか)り置きて、 山上の堂に登る。
岩に巌(いわお)を重ねて山とし、 松栢(しょうはく)年旧(としふ)り、
土石(どせき)老いて 苔(こけ)滑らかに、
岩上の院々(いんいん)扉を閉じて、 物の音聞こえず。
岸を巡(めぐ)り 岩を這(は)いて 仏閣(ぶっかく)を拝し、
佳景寂寞(かけい・じゃくまく)として 心澄み行くのみおぼゆ。

 (しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声

【語句】   (この日は 五月二十七日 、現在なら7月13日頃で、江戸を発ってから丁度二ヶ月になる)
立石寺: 現在は「りっしゃくじ」、古くは「りゅうしゃくじ」で、通称「山寺」、正確には「宝珠山・立石寺」。
慈覚大師: 円仁(えんにん)としても知られ、入唐八家の一人。
尾花沢よりとって返し: 「尾花沢から大石田まで出て、最上川から舟に乗る」という通常のルートから外れ、一旦南下して立石寺に立ち寄り、そこからまた北に戻ったことを言う。

日いまだ暮れず: 曾良の旅日記によると、
 「廿七日: 天気能し。 辰の中刻(現在の7時頃)、尾花沢を立て立石寺へ趣く。清風より馬にて館岡迄送らる。(中略)未の下刻(現在の午後3時~3時半頃)に着く」とある。 
その後、麓の宿坊に予約を入れて荷物を置き、一休みしてから山寺に登ったとしても、夏至近くならまだ日は高いはず。
麓の坊: 参詣者の泊る宿坊。
山上の堂: 本堂が根本中堂、百丈岩の上に立つ開山堂(寺を開山した自覚大師の御堂)、写経を納めた納経堂、五大明王を奉る五大堂などがある。
松栢(しょうはく): 「栢(はく)」は「柏(かしわ)」の俗字。 松や柏に限らず、樹齢を重ねた山寺の老木を指しているのでしょう。
岩上の院々: 海抜417m.にある奥の院(正しくは「如法堂」)、412m.にある華蔵院、400m.の中性院金乗院性相院など、十二支院がある。
岸をめぐり 岩を這て: 「岸」は「崖」のこと。 現在の立石寺は石段が整備されているが、当時は今より大変だったはず。

蝉の声: 芭蕉が尾花沢に着いてから十日間、ずっと梅雨空が続いていたことは「曾良旅日記」に書かれており、この日はやっと晴れてそろそろ梅雨明けを迎える。 蝉が鳴き始めるとしても「初蝉」の頃だから、盛夏のにぎやかな「蝉しぐれ」ではない。 夕暮れ近くであれば蝉の鳴きやむ時間帯だろうから、尚更でしょう。



2014年11月10日月曜日

33. 大石田

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【現代読み】
最上川(もがみがわ)乗らんと、 
大石田(おおいしだ)と云う所に日和(ひより)を待つ。

(ここ)に 古き俳諧(はいかい)の種こぼれて、
忘れぬ花の 昔を慕(した)い、
芦角一聲(ろかく・いっせい)の心を和(やわ)らげ、
この道に さぐり足して、
新古二道(しんこ・ふたみち)に 踏み迷うといえども、
道標(みちしるべ)する人しなければ と、
わりなき一巻(ひとまき)を残しぬ。
このたびの風流(ふうりゅう)、 爰(ここ)に至れり。

【語句】
最上川: 山形県を流れる河川で、日本三大急流の一つ。 「乗らん」は「最上川より舟に乗らん」の略。 急流で難所も多かったが、河川の整備により舟運(しゅううん)も発達した。
歌枕でもあり、「古今和歌集」にも載っている。
「最上川 のぼればくだる 稲舟(いなぶね)の いなにはあらず この月ばかり」(東歌・陸奥歌) 
「稲舟(いなぶね)」は舟運で米俵を運ぶことで、馬車よりずっと多くの数を運ぶことができた。

大石田: 最上川の中流に位置し、河口付近の酒田とを結ぶ舟運の船着場として栄えた。 それ以上の上流域には多くの難所があるため、大石田で荷物を陸揚げし、安全な陸路を運ぶというのが当時は一般的だったようである。
大石田には、尾花沢で知り合った船問屋の一栄、大庄屋の川水などの俳人がいた。

芦角一聲(ろかく・いっせい): 芦茄(あし笛)と胡角(つのぶえ)を混交した芭蕉の造語のようで、鄙(ひな)びた芦笛を吹くような、「辺鄙な田舎の風流を指す」、とのこと。
新古二道に踏み迷う: 前出の清風「おくれ双六(すごろく)」の序文に、
「心の花の都にも二年(ふたとせ)三年(みとせ)住みなれ、古今俳諧の道に踏み迷ふ。近曽より漸(ようよう)新しき海道に出て、諸人を招き、四季折々の佳作を得ると云へども」―を指す。

わりなき一巻: やむを得ずに巻いた連句一巻。 曾良の「俳諧書留」に芭蕉、曾良、一栄、川水による句が残されている。(後述)
このたびの風流: 須賀川・等窮宅での「風流の 初めや奥の 田植え歌」―を風流の旅の初めとすると、今回の旅ではこのような成果を産むに至った、ということ。

曾良旅日記」によると、三日ほど日和を待っていて、その間に一栄、川水らとの交流を深めていたようである。
廿八日 馬借て天童に趣く。六田にて、又内蔵に逢う。立寄ば持賞(もてな)す。子の中刻、大石田・一栄(船問屋)宅に着く。両日共に危して雨降ら不。本飯田より壱り半、川水に出合う。其の夜、労に依りて俳(諧)無し。休む。
廿九日 夜に小雨す。 (四人による)発(句)、一巡終りて、(芭蕉)翁 両人誘て黒滝へ参詣(さんけい)被(せら)る。予は所労の故、止(とど)る。未の刻、帰被(かえら)る。道々俳(句)有。 夕飯、川水に持賞(もてな)す。夜に入、帰る。
晦日(三十日) 朝曇り、辰の刻晴れ。歌仙終る。翁、其の辺へ遊被(あそばれ)る。帰り、物ども書被(かかる)る。
六月朔(一日) 大石田を立つ。辰の刻、一栄・川水、弥陀堂迄送る。

曾良・俳諧書留」 大石田・高野平衛門(一栄)亭にて:
五月雨を 集て涼し 最上川  翁(芭蕉)  (「涼し」は本文で「早し」に改められている)
岸に ほたるをつなぐ 舟杭  一栄  (「岸」は、たぶん「みずぎわ」)
瓜畑 いざよふ空に 影待て  曾良
里を むかひに桑の 細道  川水  (「里」は、「むらざと」か「みちのり」)
うしの子に 心慰む 夕間暮  一栄
水雲 重しふところの 吟   翁  ・・・と続く。 (「吟」は「くちずさむ」か)

2014年11月9日日曜日

34. 最上川(六月一日)

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【現代読み】
最上川(もがみがわ)は陸奥(みちのく)より出(い)でて、 山形を水上(みなかみ)とす。
碁点(ごてん) (はやぶさ)など云う 恐ろしき難所(なんしょ)有り。
板敷山(いたじきやま)の北を流れて、 果ては酒田(さかた)の海に入(い)る。
左右 山覆(やまおお)い、 茂みの中に舟を下(くだ)す。
(これ)に稲(いね)積みたるをや、 稲船(いなぶね)というならし。
白糸の瀧は 青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、
仙人堂(せんにんどう)、 岸に臨(のぞ)みて立つ。
水みなぎって 舟危(ふねあや)うし。

 五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川

【語句】
最上川: (前出)
碁点・隼: 最上川の難所で、大石田より少し上流にある。
稲船(いなふね): 舟運(しゅううん)で米俵を運んだもので、馬車よりも多くの量を運べた。 「古今和歌集」にも出てくる(前出)。
「最上川 のぼればくだる 稲舟(いなぶね)の いなにはあらず この月ばかり」(東歌・陸奥歌)

白糸の瀧: 最上四十八瀧の中で最も有名で高さ220m.、歌枕にもなっている。
 「最上川 落ちまふ瀧の白糸は 山のまゆより くるにぞ有りける」(源重之)
仙人堂: 源義経の臣、常陸坊海尊を祀る。 海尊は仙術を会得して長生きしたと伝えられる。場所的には、白糸の瀧より少し上流にある。 
五月雨を あつめて早し: 大石田・高野平衛門(一栄)亭で詠んだ句は、「五月雨を あつめて涼し」―であった。 実際に船で急流を下った後には、このように変えられている。

「曾良旅日記」によると一日に大石田を船で発ってその日は新庄に泊り、翌日は歌仙があって一泊、三日に船を乗りついで白糸の瀧・仙人堂を経て羽黒に至っている。
六月朔日: 大石田を立つ。辰の刻、一栄・川水、弥陀堂迄送る。馬弐疋、舟形迄送る。二里。一里半、舟形。大石田より出手形を取る、名木沢に納め通る。新庄より出る時は新庄にて取りて、舟形にて納め通る。両所共に入るには構わ不(ず)。二里八丁 新庄、風流(富豪・渋谷甚兵衛)に宿す。
二日: 昼過ぎより九郎兵衛(渋谷氏。俳号:盛信。新庄一の富豪で、風流の本家)へ招被(まねか)る。 彼是、歌仙一巻有り。盛信。息(子)、塘夕、渋谷仁(甚)兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵(衛)へ。

三日: 天気吉。 新庄を立つ。一里半、本合海(もとあいかい)。次良兵(船宿)へ方へ甚兵へ方より状添る。大石田平右衛門方よりも状遣わす。船、才覚して乗する(合海より禅僧二人同船、清川にて別る。毒海ちなみ有り)一里半、古口へ舟着る。是又、平七(現:古口)方へ新庄・甚兵より状添る。関所、出手形、新庄より持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟つぎて、三里半、清川に至る。酒井左衛門(鶴岡藩主)殿領也。 此の間に仙人堂・白糸の瀧右の方に有り。平七より状添方の名を忘れたり。状添えずして番所有りて、船より上げず。一里半、雁川、三里半、羽黒・手向(とうげ)荒町。申の刻、近藤左吉(手向村の染物業。俳号:露丸)の宅に着く。

「曾良俳諧書留」より:
  新庄:
御尋に 我宿せばし 破れ蚊や  風流
はじめてかほる 風の薫物  芭蕉
菊作り 鍬に薄(すすき)を 折添て  孤松
霧立かくす 虹のもとすゑ  曾良
  その他・・・

  風流亭:
水の奥 氷室尋る 柳哉  翁
ひるがほかヽる 橋のふせ芝  風流
風渡る 的の変矢に 鳩鳴て  曾良

  盛信亭:
風の香も 南に近し 最上川  翁
小家の軒を洗ふ夕立  (息)柳風
物もなく 麓は霧に 埋て  木端