2014年10月18日土曜日

43. 越後路(七月上旬)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
酒田の余波(なごり) 日を重ねて、
北陸道(ほくりくどう)の雲に望む。
遥々(ようよう)の思い 胸をいたましめて、
加賀の府まで 百三十里と聞く。

(ねず)の関を越ゆれば、 
越後(えちご)の地に歩行(あゆみ)を改めて、
越中(えっちゅう)の国 市振(いちぶり)の関に到る。

この間 九日(ここのか)、 暑湿(しょしつ)の労に神(しん)を悩まし、
(やまい)起こりて 事を記(しる)さず。

 文月(ふみづき)や 六日(むいか)も常の 夜には似ず
 荒海(あらうみ)や 佐渡に横たう 天の河(あまのがわ)

【語句】
酒田の余波(なごり) 日を重ねて: 象潟を発ってから酒田に戻り、その地の俳人たちと俳諧を重ねて一週間ほど過ごしたことは「曾良・旅日記」(前章)に詳しいが、それをこれだけの言葉で簡潔に表している。
北陸道の雲に望む: 次の目的地である北陸は、現在の福井・石川・富山・新潟(越後)の四県だが、その越後路が単なる通過点に過ぎないことは、この思い切って省略された文章でも明らかであろう。
加賀の府: 現在の金沢市。

(ねず)の関: 鼠が関(または「念珠が関」とも)。山形と越後(新潟)の境界にあり、ここから越後となる。奥羽三関の一つで、元禄当時は庄内藩の口留番所。
市振(いちふり)の関: 「市振」はまだ越後で、そこを越えると越中(富山)となり、芭蕉の勘違い。
この間 九日: 「曾良・旅日記」によると、「鼠が関」を越えたのが六月二十七日で、「市振」に着いたのが七月十二日であるから、越後路だけでも十六日かかっていることになる(その間に俳諧もあり)。
俗に「越後路十日、越中路三日」と言われるから、それに合わせただけかもしれない。 憧れだった「松嶋」や「象潟」を実際に訪ね、「奥羽の歌枕探訪」という目的が達成された芭蕉にとって、次の目的地は加賀であったということ。

暑湿の労: 暑さや雨に苦しめられ。
(しん)を悩まし: 「神(しん)」は、「心、たましい、精神」で、「気が滅入る」、「気分がすぐれない」。
(やまい)起こりて: 「曾良・旅日記」によると、芭蕉が病気になったという記述はどこにも無い。 越後路の事を何も記(しる)さなかった口実ともとれるし、このあと腹を病んで苦しむのは、むしろ曾良の方である。
文月や: 七月六日は、七夕(たなばた)の前夜である。
 
芭蕉のこの文章は、推敲の段階において半月ほどの叙述をばっさりと裁ち切った様にも見えるが、「曾良・旅日記」を読んでみると、雨続きで不愉快な出来事も色々あったらしい。

蝶夢「芭蕉翁・絵詞伝」を編集していたら、芭蕉が「佐渡が島」を描写した見事な文章を見つけたので、「曾良・旅日記」と併せて書き写しておく。  
美濃の商人・弥三郎(低耳)の紹介状を持って柏崎の庄屋(天屋弥惣兵衛)宅を訪ね、立腹のあまり雨の中を外へ飛び出したのは、その翌日のことである。

 『出雲崎』 七月四日 (陽暦:8月18日)

北陸道に行脚(あんぎゃ)して 越後の国・出雲崎という處(ところ)に泊る
かの佐渡が島は海の面(おも)十八里 滄波(そうは)を隔て
東西三十五里に 横をり臥(ふ)したり
峰の嶮(けん) 難谷(なんたに)の隈々(くまぐま)まで
さすがに手に取るばかり 鮮やかに見渡さる

むべ此島(このしま)は 黄金(こがね)多く出(い)で
あまねく世のたからとなれば 限りなき めでたき島にて侍(はべ)るを
大罪朝敵(たいざい・ちょうてき)の類(たぐ)い 遠流(をんる)せらるゝによりて
只おそろしき名の 聞えあるも本意なき事に思いて
窓押し開き 暫時(しばらく)の旅愁を労(いた)わらんとするほど

日(ひ)既に海に沈んで 月ほの暗く
銀河(ぎんが)半天にかゝりて 星きらきらと冴(さ)えたるに
沖の方(かた)より波の音 しばしばはこびて 魂(たましい)けずるが如く
腸(はらわた)ちぎれて そゞろに悲しび来(きた)れば
草の枕もさだまらず 墨(すみ)の袂(たもと) 何故(なにゆえ)とはなくて
しぼるばかりに なん侍(はべ)る

  あら海や 佐渡に横たふ 天の川   (蝶夢芭蕉翁・絵詞伝「銀河序」より)

  「曾良・旅日記」
六月廿六日(現在の8月11日): 晴れ。大山を立つ。酒田より浜中へ五里近し。浜中(酒田市内)より大山へ三里近し。大山より三瀬(鶴岡市内)へ三里十六丁、難所也。三瀬より温海(町)へ三里半。此の内、小波渡・大波渡・潟苔沢の辺りに鬼掛け橋(岩山が海に突き出して道をふさいでいた難所)・立岩、色々の岩組絶景地有り。
未の刻(午後二時半頃)、温海に着く。鈴木所左衛門宅に宿。弥三郎添状有り。少し手前より小雨す。暮るに及び、大雨。夜中、止ま不。

廿七日: 雨止む。温海立つ。翁(芭蕉)は馬にて直に鼠が関へ趣被(おもむか)る。予は湯本へ立寄り、見物して行く。半道計りの山の奥也。今日も折々小雨す。暮に及び、中村に宿す。

廿八日: 朝晴れ。中村を立ち、葡萄(ぶどう)峠に到る(名に立つ程の難所で無し)。甚雨降る。追付、止む。
申の上刻(午後四時前後)に村上に着く。宿借りて城中へ案内。喜兵(菱田喜兵衛・村上藩主)・友兵来て逢う。彦左衛門を同道す。

廿九日: 天気吉。 昼時、喜兵(菱田喜兵衛)・友兵来て(筆頭家老・榊原帯刀公より百疋給) (※疋〈ひき〉は十文の単位で、百疋=一分)、光栄寺へ同道。一燈公(帯刀の父の法号)御墓拝。道にて鈴木治部右衛門に逢う。帰りて、冷麦・持賞(もてな)す。
未の下刻(午後三時前後)、宿久左衛門(大和屋・久左衛門)同道にて瀬波(村上の西海岸)へ行く。帰り、喜兵衛隠居より下物被(くだされもの)、山野等よりの奇物持参。また御隠居より重の内下被(くださる)。友右より瓜、喜兵内より干菓子等贈らる。

七月朔日(現在の8月15日): 折々小雨降る。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋(たずぬ)。喜兵・太左衛門は見立被(みたてら)る。朝之内、泰叟寺(榊原家の菩提寺)へ参詣。 己の刻(午前九時半頃)、村上を立つ。
午の下刻(正午過ぎ頃)乙(きのと)村に至る。次作を尋ね、甚だ持(もてな)す。乙宝(おっぽう)寺へ同道、帰て、つゐ地村(中条町内)、息次市良へ状添遣す。乙宝寺参詣前、大雨す。即刻止。 申の上刻(午後四時前後)、雨降出。暮に及び、つゐ地村・次市良へ着き、宿。 夜、甚強雨す。 朝、止、曇り。

二日: 辰の刻(午前七時頃)、立つ。喜兵方より大庄屋・七良兵衛方へ之状は愚状(「愚」は自分を謙遜する言葉)に入れ、返す。昼時分より晴れ、藍風(東風で順風)出。新潟へ申の上刻(午後四時前後)着く。一宿と云、追込み宿(客を一間に無理に詰込む下級宿)の外は貸さ不(ず)。大工源七母、情け有り、貸す。甚だ持賞(もてな)す。

三日: 快晴。新潟を立つ。馬(賃)高く、無用の由(よし)、源七指図にて歩行す。申の下刻(午後五時半頃)弥彦に着す。宿取て、明神(弥彦神社)へ参詣。

四日(陽暦8月18日): 快晴。風、三日同じ風也。 辰の上刻(午前六時前後)、弥彦を立つ。弘智法印(真言宗蓮華寺の住職だった人で、即身仏となって残る)像、拝む為。峠より右に半里計り行く。谷の内、森有り、堂有り、像有り。二・三町行きて、最正寺と云う所を野積(のずみ:現・寺泊)と云う浜へ出て、十四・五丁、寺泊の方へ来りて左の谷間を通りて、国上へ行く道有り。荒谷と云う、塩浜より壱里計り有り。寺泊の方よりは渡部(わたべ)と云う所へ出て行く也。寺泊の後也。壱里有り。
同晩、申の上刻(午後四時前後)、出雲崎に着き、宿す。夜中、雨強降る。

五日: 朝迄雨降る。辰の上刻(午前六時前後)止む。出雲崎を立つ。間もなく雨降る。 柏崎に至り、天屋弥惣兵衛(市川氏:大庄屋)へ弥三良(低耳)状届け、宿など云い付ると云へども、快不(こころよからず)して出(い)。道まで両度(二度) 人走らせて止どめ(るも)、止どまら不(ず)して出づ。小雨折々降る。申の下刻(午後五時半頃)鉢崎(はっさき:現・柏崎市)、宿、たわらや六郎兵衛。
(※庄屋・天屋弥惣兵衛は当時35歳で、俳諧の正統は貞門派と信じていたようで、何か無礼なことを言ったらしい。芭蕉が立腹のあまり家を飛び出したのはこの日だけであり、当時46歳の芭蕉の置かれていた立場が良く分かるエピソードである)

六日(現在の8月20日): 雨晴。 鉢崎を昼時(立つ)。黒井(現・直江津)よりすぐに浜を通りて、今町(当時の直江津の通称)へ渡す。聴信寺(浄土真宗の寺。住職の俳号は眠鷗)へ弥三(低耳)状届け。忌中の由にて強(しい)て止(とど)め不(ず)、出(いづ)る。石井善次郎聞きて人を走らす。帰ら不(ず)。再三に及び、折節雨降り出る故(ゆえ)、幸いと帰る。宿、古川市左衛門方を云ひ付く。夜に至りて、各来る。発句有り(後述)。

七日: (七夕) 雨止不故(あめ、やまざるゆえ)、見合(みあわす)る中に、聴信寺(忌中)へ招被(まねか)る。再三辞す。強いて招くに、暮に及ぶ。 昼、少之内、雨止む。 其の夜、佐藤元仙(俳号:右雪)へ招て俳(三吟・後述)有りて、宿。夜中、風雨甚。

八日: 雨止む。立たんと欲す。強いて止めて喜衛門(石塚氏・俳号:左栗)饗す。饗畢(おわり)、立つ。未の下刻(午後三時前後)高田に至る。細川春庵(医師・俳号:棟雪)より人遣して迎え、連て来る。春庵へ寄らずして、先づ、池田六左衛門を尋ぬ。客有り。寺を借り、休む。又、春庵より状来る。頓(やが)て尋ぬ。発句有り。俳(諧)初める。宿六左衛門、子甚左衛門を遣わす。謁す。

九日: 折々小雨す。 俳、歌仙終る。

十日: 折々小雨。 中桐甚四良へ招被(まねか)れ、歌仙一折有り。夜に入て帰る。夕方より晴れ。

十一日: 快晴。 暑さ甚し。 己の下刻(午前十時頃)、高田を立つ。五智(国分寺・五智如来)居田(こた・神社)を拝む。名立(なだち)は状届け不(ず)。直(すぐ)に能生(のふ)へ通、暮て着く。玉や五郎兵衛方に宿。月晴。

十二日(現:8月26日): 天気快晴。 能生を立つ。早川にて翁つまづかれて衣類濡れ、川原に暫く干す。
午の刻(正午頃)、糸魚川に着き、新屋町、左五左衛門に休む。大聖寺(大聖持:この後「全昌寺」に出てくる、加賀の地名)そせつ師、言伝(ことづて)有り。母義、無事に下着、此地平安の由。
申の中刻(午後四時半頃)、市振(いちふり)に着き、宿。


  「曾良・俳諧書留」
   直江津にて (七月六日)
文月や 六日も常の 夜には似ず  はせを
露を のせたる桐の 一葉  石塚喜衛門・左栗
朝霧に 食焼烟 立分て   曾良
蜑の小舟を はせ上る 磯  聴信寺・眠鷗
鳥啼 むかふに山を 見ざりけり  石塚善四良・此竹
夕嵐 庭吹払ふ 石の塵  佐藤元仙・右雪

  三吟
蝶の羽おしむ蝋燭の影  右雪
春雨は 髪剃児の 泪にて  芭蕉
香は色々に人々の文  曾良

  同所
星今宵師に駒ひいてとどめたし  右雪
色香ばしき初苅の米  曾良
瀑水 躍に急ぐ 布つぎて  翁

  細川春庵亭にて
薬欄に いづれの花を くさ枕  翁
荻のすだれを あげかける月  棟雪
馬乗ぬけし高藪の下  曾良

  七夕
荒海や 佐渡に横たふ 天の河  翁

  西浜
小鯛さす 柳涼しや 海士(あま)がつま   同



2014年10月17日金曜日

44. 市振・夜(七月十二日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
今日は「親知らず・子知らず」、「犬戻り」、「駒返(こまがえ)し」など云う
北国(ほっこく)一の難所を越えて 疲れ侍(はべ)れば、枕引き寄せて寝(いね)たるに、 
一間(ひとま)隔て 面(おもて)の方に若き女の声 二人ばかりと聞こゆ。

年老(としおい)たる男(おのこ)の声も交(まじ)りて物語するを聞けば、
越後の国 新潟と云う所の遊女(ゆうじょ)なりし。
伊勢参宮するとて 此の関まで男(おのこ)の送りて、
明日は古里(ふるさと)に返す文(ふみ)したためて、
はかなき言伝(ことづて)など しやるなり。

白浪(しらなみ)の寄する汀(なぎさ)に 身を放(ほう)らかし、
海女(あま)のこの世を あさましう下(くだ)りて、
(さだ)めなき契(ちぎり)、 日々の業因(ごういん)いかにつたなし と、
物云うを聞く聞く 寝入りて、

【語句】
親知らず: 親不知(おやしらず)は海岸線が断崖になった、北陸道一の難所。 他にも幾つかの難所があり、芭蕉は早川という所でつまづいてずぶ濡れになったようである。(曾良・旅日記)

伊勢参宮: 「越後の習いにて、諸民一生の内、参宮せぬは一人もなし」(「奥のほそ道解」)。 この年は伊勢神宮の遷宮があり、芭蕉も大垣から伊勢に向かっているので、特に伊勢参りをする人が多かったらしい。

白浪の寄する汀に: 「しらなみの よするなぎさに 世をすぐる あまのこなれば やどもさだめず」(「和漢朗詠集」)



2014年10月16日木曜日

45. 市振・朝(七月十三日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
(あした)旅立つに、 我々に向かいて、
「行方(ゆくえ)知らぬ旅路(たびじ)の憂(う)さ、 あまり覚束(おぼつか)のう
悲しく侍(はべ)れば、 見え隠(がく)れにも御跡(おんあと)を慕(した)い侍(はべ)らん。
(ころも)の上の御情(おんなさけ)に 大慈(だいじ)の恵みを垂(た)れて、
結縁(けちえん)せさせ給(たま)え」 と、泪(なみだ)を落とす。

不憫(ふびん)の事には侍(はべ)れども、
「我々は所々(ところどころ)にて とどまる方(かた)多し。
ただ人の行くに任(まか)せて行くべし。
神明(しんめい)の加護 必ず恙(つつが)なかるべし」 と、
云い捨てて出(い)でつつ、 
(あわれ)さ しばらく やまざりけらし。

 一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩(はぎ)と月

曾良に語れば、 書き留(とど)め侍(はべ)る。

【語句】
曾良に語れば、書き留め侍る: 「曾良・旅日記」にはそうした記述は一切無い。 俳句も「俳諧書留」には見当たらないので、この遊女の物語は芭蕉の創作であろうと言われている。

2014年10月15日水曜日

46. 越中・那古の浦(七月十四日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
黒部(くろべ)四十八(しじゅうはち)が瀬(せ)とかや、
数知らぬ川を渡りて、 
那古(なご)と云う浦(うら)に出(い)づ。

坦籠(たご)の藤波(ふじなみ)は、 春ならずとも、
初秋(はつあき)の哀(あわ)れ 訪(と)ふべきものを と、
人に尋(たず)ぬれば、

「是(これ)より五里 磯伝(いそづた)いして、 
向こうの山陰(やまかげ)に入(い)り、
(あま)の笘葺(とまぶ)き かすかなれば、 
(あし)の一夜(ひとよ)の宿 貸す者あるまじ」 

と云い脅(おど)されて、 加賀(かが)の国に入(い)る。

 早稲(わせ)の香や 分け入る右は 有磯海(ありそうみ)

【語句】
黒部四十八が瀬: 全国有数の急流である黒部川は、かつて扇状地を幾重にも川筋が分かれていたことからそう呼ばれ、難所としても知られていた。→ 黒部川の歴史

那古(なご)と云う浦: 富山湾に面した現在の射水市(いみずし)の海岸線。奈呉の浦 とも。歌枕になっていて、
 『東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣する小舟(をぶね)漕ぎ隠る見ゆ』(「万葉集十七」 大伴家持

坦籠(たご)の藤波(ふじなみ): 「坦籠(たご)」も歌枕で、
 『多祜の浦の 底さへ匂ふ藤波を かざして行かむ 見ぬ人のため』(「万葉集」十九)
藤波を詠んだ歌には大伴家持(おおとものやかもち)の句もあって、
 『藤波の 影なす海の底清み 沈(しず)く石をも 珠とぞ我が見る』(「万葉集」十九)
 (※万葉集は万葉仮名で「藤奈美能 影成海之底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流」と書かれていたので、現代表記とは少し違い、地名の表記もまちまちである)

「坦籠(たご)」は現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされる。 その近くには「多胡神社」というのもあり、地図で見ると那古からそう遠くないのだが、「脅し」が効いたのでしょう。

云い脅されて、加賀の国に入る: 芭蕉は結局、奈呉から少し南下してその日は高岡に泊り、翌日から金沢に一週間ほど滞在し、能登の方へは行っていない。
早稲(わせ)の香や: 黒部四十八が瀬を渡ったのが七月十三日、氷見の方へ行こうとしたのが十四日で(現在なら8月28日)、早い所なら稲穂が実り始める頃。
有磯海(ありそうみ): 同じ富山湾でも、奈呉の浦より西側の、氷見寄りの海岸線をそう呼ぶらしい。 芭蕉はそちらへは行かず、左の金沢方面への道を南下するのである。

  「曾良・旅日記」
七月十三日(現在の8月27日): 市振立つ。虹立つ(「泊にて」を抹消)。玉木村(現:青海町内)、市振より十四・十五丁有り。越中・越後の堺、川有り。渡て越中方、堺村(現:朝日町内)と云う。加賀の番所有り。出手形入るの由。
泊(同:朝日町内)に至りて越中の名所少々覚ゆる者有り。入善(現:入善町)に至りて馬なし。 人雇いて荷を持たせ、黒部川を越す。雨続く時は山の方を廻るべし。橋(愛本)有り。壱里半の廻り坂有り。
昼過ぎ、雨為降(あめふらんとして)晴る。申の下刻(午後五時半前後)滑川に着き、宿。暑気甚し。

十四日: 快晴。暑さ甚だし。富山(現:富山市)かからずして(滑川一里程来て、渡りて富山へ別る)三里、東石瀬野(渡し有り。大川〈神通川〉)四里半、放生津(渡り有り。甚だ大川〈庄川〉也。半里計り)。
氷見(ひみ)へ欲行(ゆかんとほっし)て、不往(ゆかず)。高岡(現:富山県高岡市)へ出る。二里也。
那古・二上山(高岡より少し北にある丘で、歌枕。「坦籠の藤波」はその先)・石瀬野(いわせの:歌枕)等を見る。
高岡に申の上刻(午後四時前後)、着て宿。翁、気色不勝(すぐれず)。暑さ極て甚し。●●同然(この箇所難読)。

2014年10月14日火曜日

47. 加賀・金沢(七月十五日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
卯の花山(うのはなやま)、 倶利伽羅(くりから)が谷を越えて、
金沢は 七月 中の五日(なかのいつか)也。 
(ここ)に大阪より通う商人 何処(かしょ)と云う者有り。
それが旅宿(りょしゅく)を共にす。

一笑(いっしょう)と云う者は、 此の道に好(す)ける名の
ほのぼの聞こえて、 世に知る人も侍(はべ)りしに、
去年(こぞ)の冬 早世(そうせい)したりとて、
その兄 追善(ついぜん)を催(もよお)すに、

 塚も動け 我が泣く声は 秋の風

  ある草庵に 誘(いざ)なわれて
 秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子(うり・なすび)

  途中 吟(ぎん)
 あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風

  小松と云ふ所にて
 しをらしき 名や小松吹く 萩(はぎ)すすき

【語句】
卯の花山: 歌枕として知られ、砺波山(となみやま)辺りと考えられる。
 『かくばかり 雨の降らくにほととぎす 卯の花山に なほか鳴くらむ』(万葉集」十・柿本人麻呂)

倶利伽羅峠(くりからとうげ): 富山(越中)と石川(加賀)の境にある砺波山(となみやま)にある峠。 木曽義仲が平家の大軍を破った倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)の古戦場として有名。
七月 中の五日: 七月十五日のことで、現在の8月29日。

何処(かしょ): 「蕉門諸生全伝」に、「大阪人、享保辛亥六月十一日卒」とあり、「猿蓑(蕉門句集)」に二首入選している。
一笑(いっしょう): 加賀俳壇の有力者。 芭蕉の来訪を待つことなく、元禄元年十一月没。享年三十六歳。
その兄 追善を催す: 七月二十二日に金沢・願念寺で一笑の冥福を祈って句会が行われ、「曾良・俳諧書留」にも句が残されている(後述)。
塚も動け: 「塚」は「墓石」のこと。

七月十五日に金沢入りした芭蕉は、二十四日に発つまで十日ほど金沢に滞在し、何度か俳諧を行っている。 
曾良は十七日に初めて病気(腹)の記述が出てくるが(その後の二日間は記述無し)、その後も治る気配が無く、八月五日には芭蕉と別れて先に長嶋へと旅立っている。
  「曾良・旅日記」
七月十五日(現在の8月29日): 快晴。高岡を立つ、埴生八幡(倶梨伽羅峠の山麓付近にある神社)を拝す。源氏山(倶梨伽羅峠の南東にある)・卯の花山也。倶梨伽羅を見て。未の中刻(午後二時半頃)、金沢に着く。
京や吉兵衛に宿借り、竹雀・一笑へ通ず、即刻、竹雀・牧童(立花氏。通称:研屋彦三郎。北枝の兄)同道して来て談。一笑、去十二月六日死去の由。

十六日: 快晴。己の刻(午前九時半頃)、駕籠(かご)を遣して竹雀迎え、川原町、宮竹屋喜左衛門方へ移る。段々各来る。謁す。

十七日: 快晴。翁、源意庵へ遊(あそば)る。予は病気故、不随(したがはず)。今夜、丑の比(午前二時頃)より雨強く降て、暁止む。

十八日: 快晴。

十九日: 快晴。各来。

廿日: 快晴。 庵(一泉の松幻庵で、犀川のほとり)にて一泉(斉藤氏)饗。 俳(後述)、一折有て、夕方野畑(野端山:金沢市内)に遊ぶ。帰て、夜食出て散ず。子の刻(午前零時頃)に成。

廿一日: 快晴。高徹(医師・服部元好:北枝と親交あり)に逢い、薬を乞う。翁は北枝(牧童の弟で立花氏。兄と同じ刀研師。蕉門十哲の一人)一水同道にて寺に遊(あそば)る。十徳二つ。十六四。

廿二日: 快晴。 高徹、見廻(みま)ふ。亦(また)、薬請(くすりう)く。
此の日、一笑追善会(ついぜんえ)、於、願念寺興行。各朝飯後より集る。 予、病気故、未の刻(午後二時頃)より行く、暮過ぎ、各に先達(さきだって)帰る。亭主、丿松(べっしょう:一笑の兄)。

廿三日: 快晴。 翁は雲口(小野氏・町人)主(あるじ)にて宮ノ越(宮ノ腰:金石町)に遊る。 予、病気故、不行(ゆかず)。江戸への状、認(したた)む。鯉市(鯉屋市兵衛:杉風のこと)・田平(田中平丞)・川源(川合源衛門:長嶋藩主)へ也。
高徹より薬請く。以上六貼(でふ)也。今宵、牧童・紅爾等、滞留願。

廿四日(現在の9月7日): 快晴。金沢を立つ。小春(宮竹屋の三男)・牧童・乙州(川井氏。近江の輸送業者)町外れまで送る。雲口・一泉・徳子等、野々市まで送る。餅・酒等持参。申の上刻(午後三時半頃)、小松に着く。

  「曾良・俳諧書留」
  一笑・追善
塚もうごけ 我泣声は 秋の風  翁
玉よそふ 墓のかざしや 竹露  曾良

  七月廿五日 小松山王会
しほらしき 名や小松吹 萩薄(はぎ・すすき)  翁

  廿六日 同・歓水亭会 雨中也
ぬれて行や 人もおかしき 雨の萩  翁
心せよ 下駄のひびきも 萩露  曾良
かまきりや 引こぼしたる 萩露  北枝

2014年10月13日月曜日

48. 多太神社(七月二十五日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
此の所 多太(ただ)の神社に詣(もう)ず。
実盛(さねもり)が甲(かぶと) (にしき)の切れあり。
往昔(そのかみ) 源氏に属せし時、
義朝(よしとも)公より賜(たま)わらせ給(たま)うとかや。
げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、
菊唐草(きくからくさ)の彫りもの 金(こがね)を散りばめ、
龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打ったり。

実盛(さねもり)討死(うちじに)の後(のち)、
木曽義仲(きそ・よしなか) 願状(がんじょう)に添えて
この社(やしろ)に こめられ侍(はべ)るよし、
樋口(ひぐち)の次郎が使いせし事共(ことども)、
目のあたり 縁起(えんぎ)に見えたり。

 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす

【語句】
多太(ただ)神社: 石川県小松市にある神社。「太田」、「多田」など、表記が異なる。
実盛(さねもり): 斎藤 実盛(さいとう さねもり)は平安末期の武将。木曽義仲討伐のため、白髪を黒く染めて出陣し、孤軍奮闘して討ち取られる。 その木曽義仲こそ、幼少の頃に実盛から命を助けられた駒王丸の成長した姿であった。

義朝(よしとも)公: 源 義朝(みなもと の よしとも)のこと。実盛は最初「義朝」に従い、その後「義朝」の弟の源 義賢(みなもと の よしかた)の側につくが、それによって義賢は討ち取られてしまう。 再び義朝の麾下に戻った実朝だが、義賢(よしかた)に対する恩義も忘れておらず、義賢の子の駒王丸(のちの木曽義仲)を乳母のもとに送り届けた。

目庇: 兜の前の庇(ひさし)の部分。
吹返し: 耳の辺りで後方に反り返っている部分。
龍頭: 兜前面の飾り。
鍬形: 兜の前立物。 二本で対になっている。→ 

実盛討死の後: 実盛の首は白髪を染めていたので最初は誰だか分からなかったが、そのことを樋口 兼光(ひぐち かねみつ)から聞いた木曽義仲が近くの池で首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わったので実盛であることが分かり、それがかつての恩人であることを知った義仲は、人目もはばからずに泣いたという。
樋口の次郎: 樋口 兼光(ひぐち・かねみつ)のこと。 木曽義仲の乳母子として義仲と共に育てられた、義仲四天王の一人。実盛の首を検分した際、一目見て涙を流し「あな、無残やな。斉藤別当(実盛)にて候ひけるぞや」(謡曲「実盛」)と言ったとある。

きりぎりす: 五文字で語呂が良いから「きりぎりす」となっているが、現代ではコオロギの鳴き声という解釈が一般的。

  「曾良・旅日記」
七月廿四日: 申の上刻(午後三時半頃)、小松に着く。 竹意同道故、近江屋と云ふに宿す。北枝、随之(これにしたがふ)。夜中、雨降る。

廿五日(現在の9月8日): 小松を立たんと欲す。所衆聞て、北枝を以(もっ)て留(とど)む。立松寺(建聖寺)へ移る。 多田八幡へ詣でて、実盛が甲冑・木曽(義仲)願書を拝む。終て山王神主・藤村伊豆宅へ行く。会有り(「しほらしき名や」を発句とする十吟の会:前章)。終て此に宿す。申の刻(午後四時半頃)より雨降り、夕方止む。夜中、折々降る。

廿六日: 朝止て己の刻(午前九時半頃)より風雨甚し。今日は歓生(越前屋宗右衛門。別号:享子)方へ招被(まねか)る。申の刻(午後四時半頃)より晴。 夜に入て、俳、五十句(前章参照)。終て帰る。庚申(庚申待:前出)也。

廿七日: 快晴。(此の)所の諏訪宮祭の由、聞て詣ず。己の上刻(午前八時半頃)、立つ。斧卜(とぼく)・志格等来て留めると云えども、立つ。伊豆尽甚持賞(もてな)す。八幡へ奉納の句有り。実盛が句(「むざんやな」の句)也。 予、北枝、随之(これにしたがふ)。
 「あなむざんや かぶとの下の きりぎりす  芭蕉」
 「幾秋か 甲(かぶと)にきえぬ 鬢(びん)の霜  曾良」
 「くさずりの うら珍しや 秋の風  北枝」

2014年10月12日日曜日

49. 那谷寺

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行くほど、
白根(しらね)が嶽(だけ) (あと)に見なして歩む。
左の山際(やまぎわ)に 観音堂あり。
花山(かざん)の法皇(ほうおう) 三十三所の巡礼(じゅんれい)
とげさせ給(たま)いて後(のち)、
大慈大悲(だいじ・だいひ)の像を安置し給(たま)いて、
那谷(なた)と名付け給(たま)うと也(なり)。
那智(なち)・谷汲(たにぐみ)の二字を分かち侍(はべり)しとぞ。

奇石(きせき)様々に、 古松(こしょう)植え並べて、
萱葺(かやぶ)きの小堂(しょうどう)、 岩の上に造り掛(か)けて、
殊勝(しゅしょう)の土地なり。

 石山の 石より白し 秋の風

【語句】
山中の温泉(いでゆ): 小松から六里ほど南に行った山の中にある山中温泉(次の章)のことで、那谷寺はその途中にある。
「曾良・旅日記」によると先に山中温泉」へ行き、芭蕉と北枝は那谷まで加賀藩士と逢うために出向いているので(後述)、旅の順序としては逆になっている。
曾良は名湯と言われた山中温泉でも腹の病が治らずそこで別れ、一人で大聖寺町にある全昌寺へと一足先に趣いている。

白根が嶽: 石川と岐阜の県境にある白山(2702m.)のことで、「富士」、「立山」と共に日本三名山の一つ。「跡に見なして」は、「後ろに見て」ということ。
観音堂あり: 那谷寺のこと。 本堂に千手観音(せんじゅかんのん)を安置する。
花山の法皇: 第六十五代花山天皇(かざん・てんのう)のこと。

三十三所の巡礼: 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)巡礼のことで、三十三所の霊場の観音菩薩を全て拝むと、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるという。
大慈大悲の像: 本堂に安置されている千手観音(せんじゅ・かんのん)菩薩像のこと。 実際は花山天皇より前に、泰澄大師が開山の折りに安置したもの。
那智・谷汲の二字を: 西国三十三観音の一番「智」と三十三番「汲」の山号から一字ずつを取り、「那谷」と改名した。→ 那谷寺・画像   

「曾良・旅日記」 (記述の無い日は、具合が悪かったのでしょう)
七月廿七日: 山中(温泉)に申の下刻(午後五時前後)、着。泉屋久米之助方に宿す。山の方、南の方より北へ夕立通る。

廿八日: 快晴。 夕方、薬師堂(医王院。本尊・薬師如来。町の西の山中にある)其の外、町辺を見る。夜に入り、雨降る。

廿九日: 快晴。 道明が淵(温泉の東を流れる大聖寺川の淵)、予、往不(ゆけず)。

晦日(三十日): 快晴。 道明が淵。

八月朔日(現在の9月18日): 快晴。 黒谷橋(大聖寺川に架かる橋)へ行く。

二日: 快晴。

三日: 雨折々降る。暮に及び、晴れ。山中故、月不得見(つきみることをえず)。夜中、降る。(晴れれば三ケ月)

四日: 朝、雨止む。 己の刻(午前九時半頃)、又降りて止む。夜に入り、降る。

五日: 朝曇り。昼時分、翁・北枝、那谷(寺)へ趣く。明日、小松に於て、生駒万子(加賀藩士・千石)、出会の為也。
●●(難読)して帰て、即刻、立つ。大聖寺(町)に趣く。(曾良はここから芭蕉と別れ、一人旅)
全昌寺へ申の刻(午後四時半頃)着、宿。夜中、雨降る。

2014年10月11日土曜日

50. 山中温泉

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
温泉(いでゆ)に浴(よく)す。 
その効(こう) 有馬(ありま)に次ぐと云う。

 山中(やまなか)や 菊は手折(たお)らぬ 湯の匂い

あるじとする者は 久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(しょうどう)なり。

彼が父 俳諧(はいかい)を好み、 
(らく)の貞室(ていしつ) 若輩(じゃくはい)の昔(むかし)、 
(ここ)に来(きた)りし頃、 風雅(ふうが)に辱(はずか)しめられて、 
洛に帰りて 貞徳(ていとく)の門人(もんじん)となって世に知らる。  
功名の後(のち)、 この一村(いっそん) 判詞(はんし)の料(りょう)を請(う)けずと云う。
今更(いまさら) 昔語(むかしがた)りとはなりぬ。

【語句】
温泉(いでゆ): 山中温泉(やまなか・おんせん)のこと。
有馬に次ぐ: 原文では「有明」となっているが、有馬温泉の間違い。有馬は江戸時代の温泉番付で西の横綱に選ばれている名湯。

菊は手折らぬ: 能楽「菊慈童」や、「菊水譚」の故事がベースになっている。
(菊慈童は二句の経文を書き添えた帝の枕を賜り、慈童がその経文を菊の葉に書き付けると、その葉から滴る露が不老不死の薬となって七百年の齢(よわい)を得たという。経文の功徳が菊の葉に移り顕れ、菊の葉の雫(しずく)からは菊の香が漂い、その水が溜まってやがて渕となり、谷へと流れ下り、菊水の流れとなった、といわれる)
ここでは七百歳にしてまだ童のような不老不死の人物と、当時十四歳でまだあどけなさの残る宿の主人の姿を重ねあわせていて、薬効があるという菊の花を手折らずとも、湯からはそれに劣らず良い匂いがしている、ということ。

久米之助:  泉屋甚左衛門の幼名で、当時十四歳。 芭蕉から「桃夭」の号を与えられた。
彼の父: 泉屋又兵衛・豊連。 曾良では「祖父」となっている。

(らく)の貞室(ていしつ): 「洛(らく)」は京都、貞室は貞門の俳人・安原正章のこと。京都の紙商で、のちに貞門七俳仙の一人となる。
貞徳: 松永氏。 貞門俳諧の祖。 
 貞室は十五歳頃に貞徳の門人となり、四十二歳の頃に俳諧の点業を許された。 師・貞徳の死後に俳号を貞室に改め、貞徳二世を称したという。
判詞(はんし)の料(りょう)を請けず: 俳諧での添削や批評に対する謝礼金を貰わなかった、ということ。

  「曾良・俳諧書留」
   山中の湯
山中や 菊は手折らじ 湯の薫  翁
秋の哀 入れかはる湯や 世の気色  曾良

貞室、若くして彦左衛門の時、加州山中の湯へ入て宿、泉屋又兵衛に進被(すすめられ)、俳諧す。甚恥悔、京に帰て始習て、一両年過て、名人となる。
(のちに)来りて俳(諧)催すに、所の者、布而之を習う。以後山中の俳(諧)、点領無しに到遣す。又兵衛は、今の久米之助の祖父也。

2014年10月10日金曜日

51. 曾良との別れ(八月五日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
曾良は腹を病(や)みて、 伊勢(いせ)の国
長嶋(ながしま)と云う所に ゆかりあれば、
先立(さきだち)て行くに、

 (ゆ)き行きて 倒れ伏(ふ)すとも 萩(はぎ)の原 曾良

と書き置きたり。
行く者の悲しみ、 残る者の憾(うら)み、
隻鳧(せきふ)の別れて 雲に迷うがごとし。
(よ)もまた、

 今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠(かさ)の露

【語句】
曾良は腹を病みて: 「曾良・旅日記」によると、金沢に滞在していた七月十七日頃から具合が悪くなったようで、日記に空白がある箇所は休んでいたと思われ、医師の高徹から薬をもらったりしていた。 
この日は八月五日(現在の9月18日)で、曾良の日記はこれ以降、曾良自身のことになり、芭蕉の動向については分からなくなる。
伊勢の国・長島: 現在の三重県桑名郡長島町。 曾良は若い頃長島藩に出仕し、伯父は長島にある大智院の住職だったと言われる。

隻鳧(せきふ)の別れて: 二羽の「(けり)」が別れて、別々の方向へ飛んで行く、ということ。
これも難しい言葉だが、「李陵初詩」の中の詩句で、蘇武が共に匈奴に捕らえられていた李陵と別れる際に詠んだ、
武別陵詩曰  武(ぶ)、 陵(りょう)と別れる詩に曰(いわ)く
雙鳧倶北飛  双鳧(そうふ)倶(とも)に 北へ飛び
一鳧独南翔  一鳧(いっふ)独り 南に翔(かけ)る
子当留斯館  子(なんじ)当(まさ)に 斯(こ)の館に留まるべし
我当帰故郷  我(われ) 当(まさ)に 故郷に帰るべし
―から来ているとのことで、芭蕉は「雙鳧(そうふ)」を「隻鳧(せきふ)」と変えている。

2014年10月9日木曜日

52. 全昌寺

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
大聖持(だいしょうじ)の城外、 全昌寺(ぜんしょうじ)と云う寺に泊る。
(なお) 加賀の地なり。
曾良も前の夜 此の寺に泊りて、

 終宵(よもすがら) 秋風聞くや 裏の山

と残す。 一夜(いちや)の隔(へだ)て、 千里に同じ。
(われ)も秋風を聞きて 衆寮(しゅうりょう)に臥(ふ)せば
(あけぼの)の空近う、 読経(どきょう)の声澄むままに、
鐘板(しょうばん)鳴りて 食堂(じきどう)に入る。

今日は越前の国へと、 心 早卒(そうそつ)にして 堂下(どうか)に下(くだ)るを、
若き僧ども 紙硯(かみ・すずり)をかかえ、階(きざはし)の下まで追い来たる。
折節(おりふし) 庭中(ていちゅう)の柳散れば、

 庭掃きて 出(いで)ばや寺に 散る柳

とりあえぬ様(さま)して、 草鞋(わらじ)ながら書き捨つ。

【語句】
大聖持: 現在の加賀市大聖寺町で、当時は城下町。
全昌寺: 曹洞宗の寺。 山中温泉・泉屋の菩提寺ということで、おそらくその紹介で同じ寺に泊ったのでしょう。

(なお)加賀の地なり: 全昌寺は加賀(石川)の西、越前(福井)との境近くにあり、次の目的地の「汐越の松」からは越前となる。
終宵(よもすがら): 現在なら「終夜」か「夜もすがら」で、「一晩中」、「夜通し」。
一夜の隔て、千里に同じ: 同じような表現として、蘇軾の詩「頴州初別子由」(頴州にて初めて子由に別る)に、
近別不改容  近き別れは 容(かたち)を改めず  (近くへの別れなら 顔色を変えないが)
遠別涕霑胸  遠き別れは 涕(なみだ)胸を霑(うるお)す  (遠方への別れとなれば 涙が胸にこぼれる)
咫尺不相見  咫尺(しせき)にして 相見ざるは  (近くにいても 逢えないのであれば)
実与千里同  実は 千里と同じ (実際には 千里離れているのと同じことだ)

衆寮(しゅりょう): 禅寺で修行する衆僧の宿舎。
鐘板(しょうばん): 禅寺で食事の時間を知らせる時に打つ板。
紙硯を抱え: 「しけん」と振り仮名を振っている本もあるが、朗読なら「紙(かみ)と硯(すずり)」でないと意味が分からないでしょう。 今なら若い学生たちが有名人に色紙を持って来るみたいで、ちょっと微笑ましい場面。
庭掃きて: 禅寺に一泊した者は、寝所や庭を掃除してから寺を出るのが礼儀とされていた。
とりあえぬ様(さま)して: 既に草鞋を履いて出ようとしていたので、何の準備もなく即興で書きなぐった一句。

※曾良と離れて独りのように思われるが、加賀からはずっと北枝(ほくし)が同行しており、この後「天龍寺」での別れの段で始めて名前が出てくる。

2014年10月8日水曜日

53. 汐越の松

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)

楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
越前の境(さかい)、 吉崎(よしざき)の入江(いりえ)
舟に棹(さお)さして、 汐越(しおこし)の松を尋(たず)ぬ。

 終宵(よもすがら) 嵐に波を運ばせて
  月を垂(た)れたる 汐越の松   西行(さいぎょう)

此の一首にて 数景(すけい)尽きたり。
もし一弁(いちべん)を加うる者は、
無用(むよう)の指を 立つるがごとし。

【語句】
越前の境: これまでいた加賀(石川)から、越前(福井)の北の玄関口・吉崎(現:あわら市)の浜坂に来ている。
吉崎の入江: 現在の北潟湖(きたがたこ)。 石川と福井両県にまたがっている。

舟に掉さして、汐越の松を尋ぬ: 「奥の細道・菅菰抄」によると、
『吉崎の入江に、渡し舟あり(「浜坂の渡し」と云う)。此の江を西に渡りて、浜坂村に至る。それより汐越村を越え、砂山を五・六町行けば、高き丘あり。上平らかにして広く、古松多し。其の下は、外海の荒磯にて、岩の間々にも、亦(また)松樹あり。枝葉愛すべし。 此の辺りの松を、なべて「汐越の松」と云う(一木には非ず)。今も高浪(たかなみ)根を洗いて、類稀(たぐいまれ)なる勝景なり。』―とある。

「浜坂浦・明細帳」(安永二年)によると、「汐越松 五十七本」とあり、その内の十数本には、「こしかけ松」、「からかさ松」、「見とれ松」などの固有名詞が付けられていたようである。
ちなみに松林があった浜は現在ゴルフ場となっていて、一般の人は入れないらしい。→ PDF記事

夜もすがら 嵐に波をはこばせて: 西行に憧れていた芭蕉は、これまでにも西行ゆかりの地をあちこち訪ねているが、この句は西行の作ではないらしい。
一説によると、吉崎御坊(よしざきごぼう)を建立し、四年ほど吉崎にいた蓮如(れんにょ)上人の作と言われるが、それとて確証は無い。「奥の細道・菅菰抄」では、
『此の歌、世人多く西行の詠とす。翁も人口(じんこう:世間の言葉)に付て、かくは記し申されたるが、「西行山家集」、「家集」、其の外の歌集にも此の歌なし。因(ちなみ)て旁(あまね)く尋ね侍るに、蓮如上人の詠歌なるよし。彼宗の徒、皆云り。
今、蓮如山(吉崎山:海抜33m.ほどの丘で、その上に吉崎御坊があった)より北海を臨むに、此の歌の風情よく叶(かな)へり。』―とある。



2014年10月7日火曜日

54. 天龍寺・永平寺

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
丸岡(まるおか)天龍寺(てんりゅうじ)の長老、 古き因(ちなみ)あれば尋(たず)ぬ。
また金沢の北枝(ほくし)と云う者、
仮初(かりそ)めに見送りて この所まで慕(した)い来(きた)る。
所々(ところどころ)の風景 過(す)ぐさず思い続けて、
折節(おりふし) あわれなる作意など聞こゆ。
今既に別れに臨(のぞ)みて、

 物書きて 扇(おうぎ)引き裂く 余波(なごり)かな

五十町 山に入(い)りて、 永平寺(えいへいじ)を礼(らい)す。
道元禅師(どうげん・ぜんじ)の御寺(みてら)なり。 
邦畿(ほうき)千里を避けて、 
かゝる山陰(やまかげ)に 跡を残し給(たま)うも、 
(とうと)きゆえ ありとかや。

【語句】
丸岡 天龍寺: 清涼山・天龍寺。 「丸岡」は「松岡」の誤記。 この後に訪ねる永平寺の末寺。
長老: 大夢和尚のこと。 もとは江戸品川天龍寺の住職だった人。

金沢の北枝(ほくし): 立花氏。通称、「研屋・源四郎」。 
「曾良・旅日記」では、七月十五日に金沢入りした日に北枝の兄・牧童(研屋・彦三郎)と逢っており、翌日に「宮竹屋喜左衛門方へ移る。段々各来る。謁す。」―とあるから、その頃に出会ったものと思われる。「北枝」の名が曾良の日記に出てくるのは二十一日で、その後、山中温泉や那谷寺へも同行し、ここまで慕ってついて来たものと思われる。
(この日は八月九日か十日前後だから、三週間くらい随行していたことになる)
芭蕉との出会いを機に、兄の牧童と共に芭蕉門下となり、加賀蕉門の中心的人物となった。蕉門十哲の一人で、芭蕉の言葉を書き残している。

扇引き裂く: この日が八月九日だとすると、現在の9月22日頃になり、そろそろ扇子の要らなくなる頃。 捨て扇なら秋の季語になるが、実際に扇を引き裂いた訳ではなく、別れの句を書いた扇子を北枝はもらっている。
北枝の「卯辰集」にある、 『もの書て 扇子へぎ分(わく)る 別哉』 ―が初案らしく、「松岡にて翁に別れ侍(はべり)し時、扇に書て給(たまは)る」と前書きがある。

『此の真蹟の扇面、今大阪一鼠(いっそ)所持す。此の時、北枝は越前・細呂木(ほそろぎ)駅と金沢町との間、娵落(よめおとし)と云う所の茶店まで翁を送り来ると云い伝う』(菅菰抄・付録)
『扇の一章は賀府の北枝が山中の見おくりに、橘(「立花」は北枝の姓)の茶店にてそれが扇に書きてたびけるよし、今も金城の家珍に伝へしが、「扇へぎ分くる別れかな」とあり』(「古今抄」支考)

五十町 山に入りて: 一町は110m.ほどだから、5キロ半ほど山に向かい、また戻ったことになる。
永平寺: 大本山・永平寺。曹洞宗の開祖・道元禅師が寛元2年(1244)年開いた坐禅の修行道場。 
道元禅師: 鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。

邦畿(ほうき)千里を避け: 「邦畿」は『詩経』に、「維(そ)れ民の止(とど)まる所」とあり、 「帝都」という意味で、繁華な都を避けたということ。
貴きゆえあり: 『初め寺地を京師にて給らんと有しを、(道元)禅師の云う、「寺堂を繁華の地に営ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕する者あらん歟(か)」、と固く辞して、終(つい)に越前に建立すと云う。』(「奥の細道・菅菰抄」)




2014年10月6日月曜日

55. 福井の等栽(前)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)


【現代読み】
福井は三里計(さんりばか)りなれば、
夕飯(ゆうめし)したためて出(いづ)るに、
黄昏(たそがれ)の道 たどたどし。
(ここ)に等栽(とうさい)と云う 古き隠士(いんし)有り。
いづれの年にか 江戸に来たりて予を尋(たず)ぬ。 
(はる)か十年(ととせ)余りなり。

いかに老(お)いさらぼうて有(ある)にや、
(はた) 死にけるにや と
人に尋(たづ)ね侍(はべ)れば、 いまだ存命して
「そこそこ」 と教ゆ。
市中(しちゅう)ひそかに引き入りて、
あやしの小家(こいえ)に、
夕貌(ゆうがお)へちまの 延(は)え掛かりて、
鶏頭(けいとう) 帚木(ほうきぎ)に戸(と)ぼそを隠す。

【語句】
福井: 現在の福井市で、当時は松平氏の城下町。
等栽: 福井俳壇の古老。 神戸氏。等哉、洞哉、とも。

夕顔: 夕方に白い花が咲く蔓(つる)性の植物で、大きな実からは干瓢(かんぴょう)が作られる。
源氏物語:夕顔」の段を連想させる。
糸瓜(へちま): これも蔓性の植物で黄色の花が咲き、実からはヘチマ(スポンジみたいなもの)が作られる。
鶏頭: 秋に咲く赤い花穂が、鶏の頭(鶏冠:とさか)に似ている。
帚木(ほうきぎ): 別名:帚草(ほうきぐさ)。
戸ぼそ: 扉のこと。