2014年9月30日火曜日

61. 素龍・跋文(ばつぶん)

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【現代読み】
(か)らびたるも 艶(えん)なるも 
たくましきも 儚(はかな)げなるも
おくの細道 見もて行くに
(おぼ)えず起(た)ちて 手叩(てたた) 
(ふ)して 群肝(むらぎも)を刻(きざ)
一般(ひとたび)は 蓑(みの)を着る着る 
かかる旅せまほし と思い立ち
一度(ひとたび)は坐して 目のあたり奇景を甘(あま)んず

かくて百般(ももたび)の情に 
鮫人(こうじん)の 玉を翰(ふで)に しめしたり
旅なる哉(かな) (うつわもの)なるかな
ただ嘆(なげ)かわしきは 
こうようの人の いと か弱げにて 
(まゆ)の霜(しも)の 置(お)き添(そ)うぞ

 元禄七年 初夏 素龍(そりゅう)書

【語句】
からびる: 1.枯らびる: 枯淡な趣き。枯れて物さびた風情。 2.涸びる、乾びる: 水気が無くなる。
艶なる: 美しく風情に富む様。 情緒に富む様。
見もて行くに: 読み進めて行くうちに。
群肝を刻む: (群肝は五臓六腑のこと) 心に深い感銘を受ける。
かかる旅せまほし: このような旅をしてみたい。
甘んず: (旅をすることなく、読むだけで) 満足する。

鮫人(こうじん): 人魚の類だが、西洋のマーメイドではない。 南海にありて、泣けば眼より珠(たま)を出すという。
玉を翰(ふで)にしめしたり: (真珠のような)珠(の涙)を「筆に湿(しめ)し」と、「筆に示(しめ)し」を掛けている。
(うつわもの): 才能や器量、またはそうした才能ある人のこと。
こうようの: このような。
眉の霜: 眉毛が白くなり、次第に老い行くこと。
元禄七年 初夏: 「おくのほそ道」の旅から五年後で、初夏は旧暦の四月に当たり、芭蕉はこの年の十月に亡くなっている。 享年五十一歳であった。

素龍(そりゅう): 柏木素龍。 能書家で歌学者でもあった。 元禄五年江戸に下り、芭蕉の門人である野坡(やば)の紹介で芭蕉と知り合う。 「おくのほそ道」の浄書をした人。
(ばつ): あとがき。 奥書き。
 この見事な跋文は、素龍が清書した手作りの本に添えられていたが、元禄十五年に井筒屋から出版された本(いわゆる「元禄版」)では、この後の「奥書き」にもある通り省かれてしまった。
この跋文は、明和年間になってから蝶夢(ちょうむ)によって見出され、「明和版」と「寛政版」に収められた。

2014年9月29日月曜日

62. 井筒屋・奥書(元禄版)

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【現代読み】
此の一書(いっしょ)は芭蕉翁(ばしょう・おう) 奥羽の紀行にして、
素龍(そりゅう)が筆也(ふでなり)。
書の縦五寸五歩、 横四寸七歩、
紙の重(かさ)ね八十三 首尾(しゅび)に白紙を加う。
(ほか)に素龍が跋(ばつ)有り。 (今は之を略く)
行成紙(こうぜいがみ)の表紙、 紫の糸、
外題(げだい)は 金の真砂(まさご)散らしたる白地(しろじ)に、
「おくのほそ道」 と自筆に書きて 随身(ずいじん)し給(たま)う。

遷化(せんげ)の後(のち)、 門人(もんじん)去来(きょらい)が許(もと)に有り。
また真蹟(しんせき)の書、 門人・野坡(やば)が許(もと)に有り。
草稿の書ゆえ、 文章所々相違す。
今 去来が本を以(も)て、 模写(もしゃ)する者也。

京寺町二条上ル町 井筒屋(いづつや)庄兵衛(しょうべえ) 板

去来(きょらい): 向井去来(むかい・きょらい)蕉門十哲にも数えられる京都の俳人。 
能書家の素龍が清書した「おくのほそ道」は伊賀上野の芭蕉の兄のもとにあったが、遺言により去来に贈られ、それを模写して版にしたものが井筒屋の元禄版(初版)である。
去来が譲り受けた本は、何度も推敲を重ねた上で浄書された決定稿とみなされており、多くの人の手を経た後に、現在は敦賀の西村家が所蔵し、「西村本」と呼ばれている。

真蹟の書、門人・野坡(やば)が許にあり: 野坡(やば)も蕉門十哲の一人で、素龍が清書する前の、芭蕉自筆の本を持っていた(通称「野坡本」)。 「草稿の書ゆえ、文章所々相違す」とあるのはそのため。
これは現在、岩波書店から「芭蕉自筆奥の細道」というタイトルで復刻版が出ている。

2014年9月28日日曜日

63. 去来・奥書(前)

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2014年9月27日土曜日

64. 去来・奥書(後)

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遷化(せんげ)の後: 芭蕉が亡くなったのは、元禄七年十月十二日のこと。
兄の許(もと)へ: 芭蕉の兄、松尾半左衛門のこと。 芭蕉は松尾家の次男である。
落柿舎(らくししゃ): 京都の嵯峨野にあった去来の庵で、芭蕉も何度か滞在している。→ 「落柿舎と向井去来
去来(きょらい): 芭蕉の門人・向井去来。  蕉門(しょうもん)十哲の一人。

2014年9月26日金曜日

65. 蝶夢・奥書(寛政版)

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蝶夢(ちょうむ): 江戸中期の僧であり、俳人。 芭蕉の墓所である大津の義仲寺を訪れた際にその荒廃ぶりを嘆き、再興を誓ったとされる。
これは元禄版から68年経った明和七年(1770年)に再版された明和版、いわゆる「蝶夢本」と呼ばれる本の奥書で、蝶夢三十八歳の時になる。

「去年(こぞ)の冬、伊賀の上野(芭蕉の生家)に掛錫(かしゃく:僧が錫杖〈しゃくじょう〉を壁に掛けること)の折りふし、古き反古(ほご)の中に、此の細道の原本を得たり」
井筒屋から元禄十五年(1702年)に刊行された初版本は、去来が遺言により、伊賀上野の兄から譲り受けたものということは「去来・奥書」に書かれており、芭蕉の兄も遺言とはいえ手放すのは忍びないので「写し」をとらせたことも書かれていたから、ここでいう「原本」とは、それを模写したものということでしょう。

元禄版から68年後の明和七年〈1770年)に再版された明和版(蝶夢本)には、元禄版では省かれていた「素龍・跋文」と「去来・奥書」が加えられ、この「蝶夢・奥書」もその時のもの。
 愛知県立大学図書館コレクション → 「おくのほそ道」明和版・PDFファイル

義仲寺(ぎちゅうじ): 木曽義仲の墓所で、芭蕉は生前この場所を愛し、句会も度々行われたという。 芭蕉の亡骸(なきがら)は、遺言により義仲の墓の隣に葬られた。 芭蕉の命日は元禄七年十月十七日、現在なら11月28日の初冬である。

  『 木曽殿と 背中合わせの 寒さかな』  又玄(ゆうげん)

2014年9月25日木曜日

66. 蝶夢 『芭蕉翁・絵詞伝』

蝶夢(ちょうむ)は江戸中期の俳僧で、芭蕉翁七十回忌で墓所の義仲寺(ぎちゅうじ)を訪れた時は未だ三十一歳くらいでしたから、生前の芭蕉を直接知っていた訳ではありません。 その頃の義仲寺はかなり荒廃していたようで、芭蕉を敬愛する蝶夢は寺の再興を誓ったとされています。
その後、伊賀上野にある芭蕉の生家で、古い反古(ほご)の中から「おくのほそ道」の原本を筆写した写本を見つけ、明和七年に井筒屋から再版しています。 初版の「元禄版」から既に六十八年が経っていて、これが「明和版」とか「蝶夢本」と呼ばれているもので、蝶夢三十八歳の年でした。
蝶夢が編集した「おくのほそ道」明和版はかなり刷られたようで、十九年後の寛政元年には別の版木による「寛政版」も出版されています。

この芭蕉初の伝記となる「芭蕉翁・絵詞伝(ばしょうおう・えことばでん)」は、その四年後に完成して義仲寺に奉納され、翌年には出版もされて俳人・松尾芭蕉を知る上での読み物として人気を博したようです。 蝶夢六十歳のことでした。
この「絵詞伝」はインターネットで読むことができます。→ 愛知県立大学図書館 蝶夢・著「芭蕉翁・絵詞伝」PDF

蝶夢は芭蕉の没後三十八年経って生れた人ですから、
『 その詞(ことば)は翁の自ら書き給いし、または其角が物せし「終焉記」、支考が「笈日記」の数々をもて綴る』―と後書きにもあるように、宝井 其角(たからい きかく)の「芭蕉翁・終焉記」や、各務 支考(かがみ しこう)が芭蕉の遺作を集めた「笈日記」などからの転載が多くなっているのは仕方の無いことでしょう。
これは創作というより、様々な芭蕉関係の著書を編集してまとめあげた読み物ですが、 これでも松尾芭蕉の略歴はたどれるし、蝶夢という俳僧の人物像も少しは分かると思います。

 『芭蕉翁 絵詞伝』 (抄訳)

松尾与左衛門と申せし人、初めて(伊賀の)国の府なる上野の赤坂に住めり。 これ、蕉翁の父なり。
母は伊予の国の人とや、姓氏(せいし)定かならず。 其の子、二男四女(兄と姉、妹三人)あり。
嫡子(ちゃくし)、儀左衛門(ぎざえもん)命清、後に半左衛門と云う。
二男、半七郎・宗房(むねふさ)、これ蕉翁なり。 後に名を更(か)えて、忠右衛門(ちゅうえもん)と云う。
正保(しょうほう)の初めに生る。 

明暦(めいれき)の頃に出(い)でて、(明暦二年、芭蕉が十三歳の時に父が死去、兄が家督を継ぐ)
(寛文二年・芭蕉十九歳の頃に) 藤堂新七郎・良精の嫡子、主計(かずえ)義忠に仕えらる。
義忠の別号・蟬吟(せんぎん)と云う。
弓馬(きゅうば)の業(わざ)の暇(いとま)には、風月の道を好み、和歌、及び俳諧をもてあそびて、時の宗匠・北村季吟(きたむら・きぎん)をもて師とす。 宗房(むねふさ)、共に随(したが)いて学ばれしとぞ。

さるを、寛文(かんぶん)六年四月と云うに、思い掛けずも主計失せられける。 (享年二十五歳、芭蕉二十三歳頃)
宗房(むねふさ)、其の亡き主の遺髪を首にかけて高野山に登り、納めしより、頻(しき)りに此の世を果敢(はか)なみ、身を遁(のが)れんの心切なりければ、 暇(いとま)を乞うと雖(いえど)も、さる文武の才あるを惜しみて許さねば、
同じ秋の末なりけむ、主の館に宿直(とのい)しける夜、門の傍(かたわ)らなる松を越え出で、我が住める家の隣なる城孫(じょうまご)太夫が門(かど)の柱に、短冊に書いて押しける発句に、  

 「(くも)とへだつ 友(とも)かや雁(かり)の 生(いき)わかれ


これより延宝(えんぽう)の年迄は、跡を雲霞(うんか)にくらます龍(たつ)の如く、山にや蟄(ちつ)せし、海にや隠れし。

※ 二十三歳で主人の屋敷を出奔し、二十九歳で江戸へと旅立つまでの六年間は、芭蕉にとって修行と模索の時代であり、詳しい資料が無いので年譜でも空白となっていることが多い。

寛文十二年、二十九歳の年、伊賀上野天満宮に自判の発句合せ「貝おほひ」を奉納し、それを携えて江戸に向かった。 江戸入りの時期には諸説あるが、三十歳前後の延宝年間に入ってからと言われている。 
江戸に出てもすぐに俳句の宗匠として立てるはずもなく、しばらくは先輩・高野幽山の執筆(しゅひつ:一種の書記)をしたり、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事で帳簿付けのような仕事を三年ほどしていたという。


然(しか)るに何れの年にや、武蔵野の草の縁(ゆかり)求めて、深川と云う所に住み給うとて、芭蕉を栽(う)うる。 
(松尾芭蕉が深川に居を移したのは延宝八年冬三十七歳の頃で、翌春に李下より贈られた芭蕉を庭に植えた) 

其の言葉に、風土・芭蕉の心にや叶(かな)いけむ、数株(すうしゅ)茎を備え、葉茂り重なりて庭を狭め、萱(かや)が軒端(のきば)も隠るるばかりなり。 人呼びて、草庵の名とす。 此の葉の破れ易きに、世を観(かん)じて、

 「芭蕉野分(ばしょう・のわき)して 盥(たらい)に雨を きく夜(よ)かな

 愚(ぐ)按ずるに、これより住庵を芭蕉庵と呼び、芭蕉翁(ばしょうおう)と呼べりとぞ。其の頃、年(とし)未だ四十に至らざるに、此の道の師とせし、季吟(きぎん)、湖春(こしゅん)父子を初め、翁(おきな)の号を呼べる事も、偏(ひとえ)に陰徳(いんとく)の餘(あま)りなるべし。
 初めの名は「桃青(とうせい)」と云い、別号を「風羅房(ふうらぼう)」と云いしも、芭蕉と云えるに等しく、風に破れ易き身を観ぜしとぞ。

徒然(つれづれ)なる折にや、笠を貼り給う詞(ことば)に、秋風淋しき折々、竹取りの工(たくみ)に習い、妙観(みょうかん)が刀(かたな)を借りて、自ら竹を割り、竹を削り、笠作りの翁と名乗る。  (「笠張説」より)

朝(あした)に紙を重ね、夕べに干して、また重ね重ねて、渋(しぶ)と云う物をもて色をさし、二十日過ぎる程にや出(い)できにけり。
其の形、裏の方(かた)に巻き入れ、外様(そとざま)に吹き返り、荷葉(かよう)の半ば開くるに似て、をかしき姿なり。

西行法師が富士見笠か、東坡居士(とうばこじ)が雪見笠か、宮城野の露に供(とも)連れねば(※)、呉天(ごてん)の雪に杖をや拕(ひ)かん。
霰(あられ)に誘い、時雨(しぐれ)に傾け、漫(そぞ)ろに愛(め)でて、殊(こと)に興(きょう)ず。 興のうちにして、俄(にわ)かに感ずる事あり。
更に宗祇(そうぎ)の時雨ならでも、仮の宿りに袂(たもと)を濡(うるお)して、笠の裏に書き付け侍(はべ)る。

 「世にふるも さらに宗祇の 宿(やど)りかな」  (※「世にふるも さらに時雨の 宿りかな」 宗祇)
(※お供の御侍を連れ:「みさぶらい み笠と申せ宮城野の この下露は雨にまされり」古今和歌集・陸奥歌より)

版画:吉田偃武(よしだ・えんぶ) クリックで拡大
→ 狩野至信の彩色画
ある年、庵(いおり)の辺(ほと)り近く火起こりて、前後の家共めらめらと焼くるに、炎熾(ほのお・さかん)に遁(のが)るる方あらねば、前なる渚の潮(うしお)の中(うち)に浸(ひた)り、藻(も)を担ぎ、煙を凌ぎ、辛うじて免れ給いて、いよいよ「猶如火宅(※ゆうにょかたく)」の理(ことわり)を悟り、ひたすら無所住(むしょじゅう)の思いを定め給いけるとや。

天和の大火 天和二年十二月二十八日、芭蕉三十九歳の年、駒込・大円寺に発した大火により庵が類焼した。 
※法華経に「三界無安 猶如火宅」(三界に安きこと無し、猶火宅の如し)とある。


→ 狩野至信の彩色画
其の頃、圓覚寺(えんがくじ)の大巓(だいてん)和尚と申すが、周易(しゅうえき)の文(ぶん)に委(くわ)しくおわしけり。
或る人、翁の本卦(ほんけ)を候(うかが)いけるに、考え給いければ、「萃(スイ)」と云う卦(け)に當(あた)れり。
こは、一本(ひともと)の薄(すすき)の風に倒れ、雨に萎(しお)れて、命つれなく、世にあるに譬(たと)えたり。

されど「あつまる」と読みて、其の身は潜(ひそ)むとすれど、外(ほか)より集(つど)い集まりて、心を安(やす)くする事あらずとかや。 まことに聖典の偽(いつわ)らざる諺(ことわざ)の如く、道を慕う輩(ともがら)、蟻の如く集まれりとぞ。

貞享(じょうきょう)元、子(ね)の年、芭蕉庵の春を壽(ことぶ)き給うならむ。 (芭蕉四十一歳)

 「いく霜(しも)に 心ばせをの 松かざり
※ 句の中に、「芭蕉」(はせを)が詠み込まれている。

江戸を出て、(東)海道を上り給いけるに、富士川の辺(ほとり)にて、三つばかりの捨て子の泣くあり。
此の川の早瀬にかけて、浮世の波を凌(しの)ぐに堪えず、露ばかりの命待つ間と、捨ておきけん、小萩(こはぎ)がもとの秋の風(※)、今宵や散るらん、明日や萎(しお)れんと、袂(たもと)より喰(く)らうべき物 投げて通るに、

 「(ましら)を聞く人 捨て子に秋の風いかに」 (「野ざらし紀行」より)

※小萩がもとの秋の風: 「宮城野の 霧吹きむすぶ秋の風 小萩がもとを 思いこそやれ」 (「源氏物語」:桐壷)
※猿(ましら)を聞く人: 『聴猿実下三声涙』  杜甫「秋興八首・其の二
 「猿(ましら)を聴きて実(げ)にも下(くだ)す 三声(さんせい)の涙」  (猿の鳴き声を聞けば 三声で涙が流れる)
  (猿の鳴き声を聞いても涙する人が、この秋風に震える捨て子の泣き声を聞いたら、いかに思うだろうか)

※「野ざらし」とは、野垂れ死んだ人の髑髏(どくろ)のこと。 題とするにはいかにも不吉なので、蝶夢の芭蕉翁・紀行文集では「甲子(きのえね)紀行」、別称「野曝紀行」となっているが、どちらも芭蕉自身が名付けたものではない。  


芳野の奥に入り給うに、西上人(さいしょうにん)草の庵(いおり)のあとは、奥の院より二町ばかり分け入るほど、柴人(しばひと)の通う道のみ僅かに見えて、嶮(けわ)しき谷を隔てたる、いと尊(とうと)し。
彼(か)の、「とくとくの清水」は、昔に変わらずと見えて、とくとくと(※)雫(しずく)落ちけり。
 「露とくとく こころみに 憂世(うきよ) すすがばや」  (「甲子紀行」、別称「野ざらし紀行」)

伊勢に詣で給いて、西行谷の麓の流れに、里の女どもの芋洗うを見て、
 「芋洗う女(おんな) 西行(さいぎょう)ならば 歌よまむ」  (「甲子紀行」)
  ※「とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでも なき住居かな」 (西行)


貞享二、丑の年、伊賀の山家(やまが)に年越え給いて、  (四十二歳)

 「誰婿(たがむこ)ぞ 歯朶(しだ)に餅おふ うしの年」 (※)
※芭蕉の郷里では、婿が年始に妻の実家へ羊歯にのせた餅を贈る習慣があったという。 これはどこかの婿どのが、牛の背中に大きな餅を背負わせて運んでいる姿を見て詠んだものでしょう。

奈良の二月堂に参籠(さんろう)し給う、

 「水とりや 籠(こも)りの僧の 沓(くつ)の音」  東大寺・二月堂の修二会(しゅにえ)・通称「お水取り」
 ※ 芭蕉の句は「氷の僧」か「こもりの僧」か 


秋も半ばの夜、ことに晴れ渡りしにや、
 「名月や 池をめぐりて 夜もすがら

貞享三、寅の年、草庵の春の夜に、 (四十三歳)
 「古池や 蛙(かはづ)とびこむ 水の音

雪の、いと面白う降りける夕べ、同じ心なる人の集りて、遊びけるに、もとより貧しき庵(いおり)なれば、人々薪(たきぎ)買いに行くあれば、酒買いに行くもあり。
 「米買いに 雪の袋(ふくろ)や 投げ頭巾(ずきん)」  (深川八貧:他の句は曾良の俳諧雪丸げに詳しい

「深川八貧」と題せる八句は、深川芭蕉庵貧居の様をものしたるにて、山崎藤吉氏の「俳人・芭蕉」に、「一夜数人芭蕉庵に会す。食に物なきを以て、各出(かく・い)でて之を買い来るに、嵐雪残りて飯焚きの任に当たる。依りて雪の題を探りて、各々(おのおの)句を得たり。之を深川八貧と称す」と云えるもの、即ち是(これ)なり。 (「雪まろげ」校註

→ 狩野至信の彩色画
貞享四、卯の年、春も弥生の空、長閑(のどか)に、うち霞みたる夕暮れならし。 (四十四歳)
 「花の雲 鐘は上野か 浅草か

鹿島辺りの月見んとて行き給うに、雨頻(あめ・しき)りに降りて、月見るべくもあらず。
根本寺(こんほんじ)の前(さき)の和尚(おしょう)おわする寺を尋ね入りて臥(ふ)しぬ。
頗(すこぶ)る、人をして深省(しんせい)を発せしむと、吟じけむように、暫(しばら)く清浄の心を得るに似たり。
 「寺に寝て まこと顔なる 月見かな」  (「鹿島紀行」より)

 愚(ぐ)按ずるに、この道の記、「鹿島紀行」あり。 この和尚は佛頂(ぶっちょう)禅師とて、江戸・臨川寺(りんせんじ)に住持し給いて、蕉翁、常に参禅し給いけるとぞ。


「神無月の初空さだめなき景色、身は風葉(ふうよう)の行方(ゆくえ)なき心地して」、とありて、
 「旅人と 我が名呼ばれむ 初時雨(はつしぐれ)」  (「芳野紀行」)

伊賀に帰りつき給いて、
 「古郷(ふるさと)や 臍(ほぞ)の緒になく 年の暮れ

貞享五、辰の年、伊賀に春を迎え給う。 (四十五歳)
 「春立ちて まだ九日(ここのか)の 野山かな

探丸子(たんがんし※)、別墅(べっしょ)の花見催し給いけるに、まかり給いて、
 「様々の こと思い出す 櫻(さくら)かな」  (「芳野紀行」)
※「探丸子(たんがんし)」は、若き日の芭蕉が仕えていた藤堂・主計(かずえ)良忠の跡を継いだ子、良長の俳号。
「芳野紀行」には「故主(こしゅ)蟬吟(せんぎん)公の庭にて」とあり、
そうなるとこの句から受ける印象も全く違ってくる。

※「芳野紀行」は別名「大和紀行」、「卯辰紀行」とも呼ばれ、未編集の草稿を芭蕉から預かっていた門人の乙州(おとくに)が、芭蕉の没後十五年を経て「笈の小文(おいのこぶみ)」という題を付けて刊行している。 


それより須磨(すま)に遊び給うに、空も朧(おぼろ)に残れる果敢(はか)なき短夜(みじかよ)の月も、いとど艶(えん)なるを、
 「月見ても 物たらはすや 須磨の夏

美濃の国、長良川の辺(ほとり)にさすらへ歩行(あり)き、鵜遣(う・つか)う様を見給いて、
 「面白(おもしろ)うて やがて悲しき 鵜船(うぶね)かな


更科(さらしな)の里、(うば)捨て山の月見んと、頻(しき)りに秋風の心に吹き騒ぎて、風雲の情を狂わすとて行き給うに、姥捨て山は八幡(やわた)という里より南にあり。
西南に横折れて、すさまじく高くもあらず。 角々しき岩なども見えず。只あわれ深き山の姿なり。
「なぐさめかねつ」(古今和歌集)と云いけむも理(ことわり)に知られて、そぞろに悲しきに、何故(なにゆえ)にか老いたる人を棄てたらんと思うに、いとど涙も落ち添いければ、

 「面影や 姨(をば)ひとり泣く 月の友」   (「更科紀行」より)

(姥捨山伝説には、姨(おば)を山に捨てた男が月を見て後悔に耐えきれず、翌日連れ帰ったという説話がある)
 「わが心 なぐさめかねつ更科や 姨捨て山に 照る月を見て」(古今和歌集・878)

姥(うば)は「老女」全般を指す言葉だが、 姨(おば)は中国語では「叔母(親の妹)」や「伯母(親の姉)」を指す言葉。 似ている上に違いが分かりにくいので、「姥捨山」、「姨捨山」両方の表記がある。


元禄二、己の年、江戸の春にあい給いて、去年(こぞ)の更科の秋や、おぼし出でけむ。 (四十六歳)
 「元日に 田ごとの日こそ 恋ひしけれ

立ちそむる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物に憑き侍りて、心を狂わせば、取る物も手につかず、股引きの破れをつづり、笠の緒付け替えて、松島の月、先ず心にかかる。
曾良は常に軒を並べて、薪水の労を助く。 こたび、松島・象潟の眺め共にせん事を悦び、且つは羇旅の難を労わらんというに、召し連れ給うとや。 
(※ この間、「おくのほそ道」のあらすじになるので省略)


 愚(ぐ)按ずるに、春より秋までの道の記、「おくの細道」と云う。 伊勢に尾張に近江(義仲寺・無名庵)を経て、伊賀に年越え給う。


元禄三、午(うま)の年、都近き伊賀に年をとり給いて、  (四十七歳)
 「(こも)をきて 誰人(たれびと)います 花の春

神路山(かみぢやま)に詣で給いては、「西行の涙を慕い、増賀(ぞうが)の信を悲しむ」とありて、
 「何の木の 花とも知らず 匂(におい)かな
  「裸には まだ衣更着(きさらぎ)の あらしかな

「何の木の・・」は西行の 「何事の おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」 を踏まえる。

増賀(ぞうが)は奇行の多い僧で、人からは狂人と目されながら諸国を旅した増賀の姿は、芭蕉にとって西行や宗祇と共に理想の姿であったとされる。
「裸には・・」の句は、「増賀が着ていた衣服を周りの乞食どもに全て与え、自分は丸裸で下向した」、という故事に基づく。


二見が浦にて、 二見浦は伊勢の名所で、夫婦岩も有名)
 「疑ふな うしほの花も 浦の春


今年のひと夏は国分山に籠り、山を下(くだ)らで、里の童(わらべ)に谷川の石を拾わせて、一石に一字づつの法華経を写し給うことあり。
其の記に、石山の奥、岩間の後ろに山あり。 国分山と云う。 其のかみ、国分寺の名を伝うなるべし。(中略)
日頃は人の詣でざりければ、いと神さび、物静かなる傍らに住み捨てし草の戸あり。 蓬根(よもぎね)笹、軒を囲み、屋根漏り、壁落ちて、狐狸(こり)臥所(ふしど)を得たり。 幻住庵(げんじゅうあん)と云う。

 「(まづ)たのむ 椎(しい)の木もあり 夏木立」   (「幻住庵記」)
   愚(ぐ)按ずるに、「幻住庵記」は「猿蓑集」にあり。

蝶夢が幻住庵を守って居た折のことである。 蕉翁が当時の「先ず頼む 椎の木もあり 夏木立」という句に詠み入れられた其の椎の木が、住む人も代り、庵の簷(ひさし)も古びたが、なお幾歳の星霜に耐えて遺(のこ)っていた。
ところが如何(いか)に樹木でも、樹齢が尽きれば消滅の道理は免れない。 遂(つい)に枯れ果ててしまった。
そこで蝶夢は、非情の木ではあるが、これも蕉翁の慈愍(じびん)のまなじりにかかり、風雅のたたえごとを得た樹であるというので、空しく火になし、灰にするに忍びないので、その材をもって、俳諧の席に用いる文台(ぶんだい)を作って、時に俳宗として仰がれて居た蓼太(そうた)に贈ったという。

些細なことではあるが、こんな些細な事にも、蝶夢が蕉翁を思う心の篤(あつ)かったことは窺(うかが)い知られる。
その文台(ぶんだい)は明治の頃、雪中庵に伝わっていて、自分の面識のあった雀志(じゃくし)氏が蔵していたのであるから、よい加減の虚談ではない。 蝶夢という人も、懐かしい温味のある好い人ではないか。  (幸田露伴「序」より)

元禄四、未(ひつじ)の年、粟津の無名庵(むみょうあん)に春を迎え給う時、(四十八歳)
 「大津絵の 筆の初めは 何佛(なにほとけ)」

湖水(琵琶湖)を望みて春を惜しみ給うに、
 「行く春を 近江(あふみ)の人と 惜しみける

近江は芭蕉が旧里(ふるさと)と呼んで愛した土地であり、墓所である大津の義仲寺も生前の芭蕉が好んで訪れていた場所の一つ。 近江からは近江蕉門と呼ばれた人たちを数多く輩出した。

嵯峨なる去来別業(べつぎょう)落柿舎(らくししゃ)に日頃、掛錫(けしゃく)し給うに、作り磨かれし昔の様より、今のあわれなる様こそ、心とどまれ。
彫らせし梁(うつばり)、畫(えが)ける壁も、風に破れ雨に濡れ、奇石怪松(きせき・かいしょう)も、葎(むぐら)の下に隠れたる竹椽(ちくてん:たけふすま)の前に、柚(ゆず)の木一本(ひともと)、花香ばしければ、

 「(ゆ)の花に 昔を忍ぶ 料理の間」  「嵯峨日記」より)

(明日は落柿舎を出でんに、名残りをしかりければ、奥口の一間一間を見めぐりて、)
 「五月雨(さみだれ)や 色紙(しきし)(へ)ぎたる 壁の跡(あと)」  (「嵯峨日記」終りの段)


小督の局(こごうのつぼね)の旧跡にては、「昭君村の柳、巫女廟の花の昔も思いやらる」とて、

 「うきふしや 竹の子となる 人の果て」   (※憂き節:つらく悲しいこと。 「嵯峨日記」より)

小督の局(こごうのつぼね)は、美貌と音楽の才能で高倉天皇の寵愛を一身に受けたが、中宮の父親である平清盛の怒りを買って宮中から追い出され、嵯峨野に隠れ住んだという悲劇の女性。

※「昭君村の柳、巫女廟の花」は、白居易の詩「題峡中石上」からの引用。
 「巫女廟花紅似粉」  巫女廟
(ふじょびょう)の花は、紅(あか)きこと粉(ふん)に似て
 「昭君村柳翠於眉」  昭君村(しょうくんそん)の柳は、眉よりも翠(みどり)なり

「嵯峨野」小督の局と源の仲国 (月岡芳年・画)

四条河原の納涼を見て、書き連ね給いけるは、夕月夜(ゆうづくよ)の頃より、有明(ありあけ)過ぐる迄、川中に床を並べて、夜すがら酒飲み、物食い遊ぶ。
女は帯の結び目厳(いかめ)しく、男は羽織(はおり)長ごう着なして、法師老人、共に交じり、桶屋、鍛冶屋の弟子ら迄、暇(いとま)得顔(えがお)に罵(ののし)る。 流石(さすが)に都の景色なるべし。

 「河風や うすかき着たる 夕涼み


月見むとて、船を堅田の浦に浮かべ給うに、待つ程もなく月さし出でて、湖上華やかに照り渡れり。
かねて聞きぬ仲秋望(ちゅうしゅう・もち)の日は、月の浮御堂(うきみどう)にさし向かうを、鏡山と云うなるよし。
今宵尚其のあたり遠からじと、かの堂上の欄干によるに、水面(みづのおも)に玉塔の影を砕きて、新たに千體佛(せんたいぶつ)の光を添う。

 「(じょう)明けて 月さし入れよ 浮御堂(うきみどう)」


三秋を歴(へ)て、江戸に帰り住庵におちい給うに、旧友門人いかにと問えば、
 「ともかくも ならでや雪の 枯れ尾花

元禄五、申(さる)年、江戸に春を迎え給いて、 (四十九歳)
 「年々や 猿に着せたる 猿の面(めん)」
 「数え来(き)ぬ 屋敷やしきの 梅柳(うめやなぎ)」

古き庵近く、新たに庵を作りて、人々の参らせけるに、茅屋(ほうおく)つきづきしゅう、松の柱、竹の枝折戸(しをりど)、南に向かう地は、富士に対して柴門(さいもん)景(けい)をすすめて斜めに浙江(せっこう)の潮、三股の淀に湛えて、月を見るたより宜し。
名月の粧(よそおい)にとて、先ず芭蕉を移す。 扇(せん)破れて、風を悲しむ。 たまたま花咲くも華やかならず。 茎太けれども、斧にあたらず。 かの山中不材の類木に比(たぐ)えて、その性(さが)よしとや。

深川大橋の造作の頃、 (※江戸新大橋のこと)
 「初雪や 懸けかかりたる 橋の上


元禄六、酉(とり)の年、江戸におわして隠れ家の春の心を、 (五十歳)
 「人も見ぬ 春やかがみの 裏の梅

みちのく岩城の露沾(ろせん)のきみが館の花見に招かれ給いて、當座(とうざ)、
 「西行の 庵もあらむ 花の庭

深川の末にて、船に月見給う折ふし、
 「川上と この川下や 月の友


元禄七、戌(いぬ)の年、春立ちそむるより、古郷(ふるさと)の方(かた)ゆかしとや思(おぼ)しけむ、(五十一歳)
 「蓬莱(ほうらい)に 聞かばや伊勢の 初便り

上野の花見にまかり給うに、幕うち、騒ぎ、ものの音(ね)のそれぞれなる、傍(かたわ)らの松かげを頼みて、
 「四つ合器(ごき)の そろはぬ花見心かな
※元禄七年は芭蕉最後の年で、五月に江戸を発ち、十月に大阪で亡くなっている。
蓬莱(ほうらい): ここでは正月に床の間に飾る「蓬莱飾り」のこと。

尾張にて旧交の人に対して、
 「世を旅に 代(しろ)かく小田の 行きもどり

伊賀の雪芝(せつし※)が許(もと)におわしし時、庭に松植えさせけるを、
 「涼しさや すぐに野松の 枝となり
※芭蕉は浄書された「おくのほそ道」を携え、五月十一日に次郎兵衛を伴って江戸を発ち、故郷の伊賀上野へと向かう。 途中で尾張に立ち寄り、島田如舟、鳴海千足、名古屋荷兮らの家を経て、五月二十八日に伊賀上野に到着した。
伊賀上野の郷里には、閏(うるう)五月十六日まで滞在して、「おくのほそ道」は「兄の慰みに」と置いてきている。

※雪芝(せつし)は伊賀上野の酒造業者:山田屋七郎右衛門で、雪芝亭で催された句会での作。   


嵯峨の小倉山なる、常寂寺(じょうじゃくじ)に詣で給いて、
 「松杉を ほめてや風の かをる音

同じく、大堰川(おおいがわ)の辺(ほとり)逍遥(しょうよう)し給いて、
 「六月や 峰に雲おく あらし山
※閏(うるう)五月十六日に伊賀上野を発ち、十七日は大津の乙州(おとくに)亭、十八日は膳所(ぜぜ)の曲翠亭、二十二日に去来の別墅・落柿舎(らくししゃ)に到着、しばらく滞在する。 六月十五日に京都を発つ。

→ 狩野至信の彩色画
旧里(きゅうり)に帰り、盆会(ぼんえ)営み給いし時、
 「家は皆 杖に白髪の 墓参り」  (七月十五日)

月の夜ごろ、同じ(伊賀の)国におわして、
 「今宵誰 吉野の月も 十六里」  (八月十五日仲秋、伊賀上野の無名庵で月の宴を催した時の句)
※七月中旬に盆会のため郷里に帰り、九月七日まで伊賀上野に滞在した。

九月八日、支考(しこう)惟然(いねん)を召し連れて、難波の方へ旅立ち給う。こは旧都の九日(重陽)を見むとなり。
はらから(芭蕉の兄)も遠く送り出で、互いに衰えゆく身の、此の別れの一しお力なく覚ゆるとて、供(とも)せし支考・惟然(いねん)に「介抱よくして」など云いて、後ろ影見ゆる限り、立ちておわしけるとぞ。
其の夜は、猿沢(さるさわ)の辺(ほとり)に宿り給うに、月隈(つき くま)なく、鹿も聲乱れて、あわれなれば、

 「ひいと鳴く しり聲悲し 夜の鹿


明くれば重陽(ちょうよう)なり。
 「菊の香(か)や 奈良には古き 佛(ほとけ)たち」  (九月九日)
※芭蕉は九日のうちに奈良を発ち、その日の夜に大阪・洒堂(しゃどう:後述)亭に着いている。この頃から頭痛や悪寒に悩まされていたようだが、二十八日までは無理をしてでも大阪門人たちの句会に出席していた。

十三夜の月かけて、住吉の市(いち)に詣で給いて、
 「升買うて 分別はかる 月見かな」  (九月十三日)

古郷を出で給いて後(のち)は、悩み勝ちに煩い給うに、或る時、独り言(ご)ち給うは、
 「この秋は 何で年よる 雲に鳥」    (※ 九月二十七日 : 死の半月前)

※ 此の句はその朝より心に籠めて念じ申されしに、下の五文字、寸々(きれぎれ)に腸(はらわた)を裂かれける也。
是はやん事なき世に、何をして、身の徒(いたずら)に老いぬらんと、切に思いわびられけるが、されば此の秋はいかなる事の心に叶わざるにかあらん。
伊賀を出て後は、明け暮れに悩み申されしが、京、大津の間を経て、伊勢の方に赴(おもむ)くべきか、それも人々のふさがりて止(とど)めなば、わりなき心も出きぬべし。
と、かくして力尽きなば、ひたぶるに長谷越すべきよし、しのびたる時は含められしに、ただ羽をのみ、かい繕(つくろ)いて、立つ日も無くなり給えるくやしさ、いとど言わむ方無し。 (支考「笈日記」)

幽玄極まりなし。奇にして神なると言わん。人間世の作にあらず。其の夜より思念深く、自失せし人の如し。 「雲に鳥」の五文字、古今未曾有なり。 惟然(いねん) 記 (「花屋日記:芭蕉翁終焉記」) ※「花屋日記」は偽作とされている。

この句は、患いがちだった体を無理して句会に参加していた九月二十七日頃のもので、支考の「笈日記」にもあるように下の句が中々出来なくて苦しんだ末のものという。
「雲に鳥」はいかにも唐突に思えるが、風に流されて行く雲や飛び去って行く渡り鳥に、生涯旅人であろうとした己の姿を重ね合わせているのでしょう。 その旅も既にできなくなり、二十九日病に倒れ、翌月十二日には帰らぬ人となった。

この前日(二十六日)に詠まれた句として、
 「此の道や 行く人なしに 秋の暮れ」 がある。

九月九日に奈良を発った芭蕉がその日のうちに大阪へ向かった理由は、大阪・蕉門の最古参・槐本 之道(えもと しどう)と若手・濱田 洒堂(はまだ しゃどう)の主導権争いを仲裁するためであり、 芭蕉は双方の家に公平に逗留し、両人とその門弟たちを集めて句会を催した。 芭蕉が倒れた一因は、老骨に鞭打つような肉体の疲労や心労が重なったためとも言われている。

詩とは本来そうした俗事から離れ、穏やかな心の境地を目指すはずのものなのだが、「誰一人その後をついて来る者がいない」という述懐が痛いほどに伝わってくる作品。 優れた人ほど低俗な人たちと交わっている時に孤独を感ずるものだが、それは大きな人ほど相対的に周りの人間が小さく見えるからである。

その翌日の二十八日の句として、
 「秋深し 隣は何を する人ぞ」 がある。  この後の「旅に病て」の句は口述筆記で、身の周りの世話をしていた呑舟に書かせたものだから、自筆の句としてはこれらが最後となる。

九月三十日の夜より、泄痢(せつり※)と云う病(やまい)に、いと強く悩み給いて、物宣(ものたま)うも力なく、手足氷(こお)れる如くなり給うと聞くより、
京よりは去来(きょらい)太刀もとりあえず馳せ下り、
大津よりは木節(ぼくせつ:芭蕉の門人で医師)薬嚢(やくのう)を肘(ひじ)にかけて徒(かち)より来(き)つき、
丈草(じょうそう)を始め、正秀(せいしゅう)、乙州(おとくに)が輩(ともがら)まで聞くに従いて難波に下り、病の床に、労(いた)わり仕え奉(たてまつ)る。
元より心神(しんじん)の煩いなければ、不浄を憚(はばか)りて人を近くも招き給わず。

※泄痢(せつり)は激しい下痢を伴う腹の病で中国の病名に出てくるが、原因が赤痢の様な病原菌によるものか、食中毒か、心労や持病(芭蕉は痔疾)の悪化によるものなのかはハッキリしていない。

十月五日の朝より、南の御堂(筋)の前、静かなる所に移し参らす。
   愚(ぐ)按ずるに、この家、花屋仁右衛門と云うが別屋にて、今にあり。

八日の夜更けて、側(かたわ)らに居ける、呑舟(どんしゅう)と云う男を召して、硯(すずり)に墨(すみ)する音のしけるを、如何(いか)ならんと人々いぶかり思うに、

 「旅に病て 夢は枯野を かけめぐる

→ 狩野至信の彩色画
また枯野をめぐる夢心とも、せばやとなむ。
これさえ此の世の妄執ながら、風雅の道に死せん身の、道を切に思うなり。
生死の一大事を前に置きながら、此の道を心に込め、寝(いね)ても朝雨暮煙(ちょうう・ぼえん)の間にかけり、覚めても山水野鳥(さんすい・やちょう)の聲に驚く。
之(これ)を佛(ほとけ)の妄念と戒め給えるも、今ぞ身に覚え侍る。
此の後は、ただ生前(しょうぜん)の俳諧を忘れ侍らむとのみ思うよと、返すがえすも悔やみ給うとかや。

十月九日、十日、特に苦しげなるに、十日の暮より其の身、熱(ほとぼ)りて常にあらず。 愈々(いよいよ)頼み少なく、人々心ならず思う。
夜に入って、去来を召して、やゝ物語あり。 自ら一通の文(ふみ)認(したた)め給う。 兄の許へ送らるゝなるべし。

其の頃、其角(きかく)は人を伴いて、胸騒ぎ、とく尋ね参りて病床を伺(うかが)い、力なき聲を聞きて、言葉を交わせりとぞ。

十一日の夜、木節(ぼくせつ)を召して宣(のたま)いけるは、
「我が往生も、明け暮れにせまりぬとぞ覚ゆる。 元より水宿雲棲(すいしゅく・うんせい)の身の、此の薬、彼(か)の薬とて果敢(はか)なく求むべからず。 願わくは老人の薬をもて、唇を濡らしそろわむ」と、深く頼みおき給いて、後は左右の人を退けて、不浄の身を浴(ゆあみ)し、香を焚いて安臥(あんが)し、物云い給わず。

十二日申の刻(午後四時頃)ばかりに、眠れるを期(ご)として、死顔(しがん)美(うる)わしく笑みを含み給う。
行年(ぎょうねん)五十一歳なり。

其の骸(から)に物打ちかけ、長櫃(ながびつ)に納(い)れて、その夜密かに商人(あきびと)の用意に拵(こしら)え川船にかきのせて、去来、其角、丈草より、壽貞(じゅてい)が子の次郎兵衛まで十余人、亡骸(なきがら)を守り奉り、夜すがら笘洩(とまも)る露霜の雫(しずく)に袖寒く、一人一人聲立てぬ念仏申して、年頃日頃の頼もしき詞(ことば)、睦まじき教えを忍び合う。

常に東西に招かれて、越の白山(しらやま)の知らぬ果てにて、かくもあらば、聞いて悲しむばかりならんに、一夜も亡骸に添い奉ること、互いの本意なれと、あるは喜び、あるは歎きて、十三日の朝、伏見に着く。

→ 狩野至信の彩色画
この夜、膳所(ぜぜ)より、臥高(がこう)、昌房(しょうぼう)、探志(たんし)の面々は、行き違いて難波に下り、伊賀の親しき誰彼は、大和路を越えて同じく来(きた)りしも、空しく亡骸にさえ遅れ参らせて、悲しく別れゆきしとぞ。
伏見より、手々に擔(か)きもて、粟津(あわづ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に移し奉る。
茲(ここ)なむ国分山の椎(しい)が下(もと)は、浮世へ遠くて、跡訪(あとと)う者の水向けに頼り悪(あ)しし。
「木曽殿(義仲)と塚を並べて」と、常(とこ)の言草(ことぐさ:口癖)によるものならし。
骸(から)に召させ奉(たてまつ)る浄衣は、智月(ちげつ)の尼、乙州の妻、縫いて着せまいらす。

十四日、夕月夜(ゆうづくよ)打ち曇りがちに、物思える月影の、いと憐れなるに、木曽塚の右に並べ、土穿(つち・うが)ちて納め奉(たてまつ)る。
義仲寺の、直愚(ちょくぐ)上人を導師として、各々(おのおの)焼香し奉るに、京、難波、大津、膳所(ぜぜ)より、被官(ひかん)隠者までも子の翁を慕い奉(たてまつ)り、招かざるに来たり集る者、三百余人なり。

此の地に(芭蕉翁が)自ずから振りたる松あり柳あり。 かねて塚となるの謂(いわれ)ならむと、そのままに卵塔をまねび、荒垣(あらがき)を結(ゆ)い、冬枯れの芭蕉を植えて、名の記念(かたみ)とす。
常に風景を好み給う癖ありけるに、所は長等山(ながらやま)を後ろにし、前には漣(さざなみ)清く湛えて、遺骨を湖上の月に照らすも、かりそめならぬ徳光(とくこう)の至りなるべし。
※ この辺りの文章は宝井其角の「芭蕉翁終焉記」をそのまま写した形で、「卵塔をまねび」という表現も同じである。

→ 狩野至信の彩色画

愚(ぐ)按ずるに、「芭蕉翁」の三字の石碑(いしぶみ)は、その時に僧、丈草(じょうそう)が筆にて、其角、去来の輩(ともがら)建てぬとかや。
廟の回(めぐ)りの石垣は、百川法橋(ひゃくせん・ほうきょう)経営し、行状の碑文は、角上(かくじょう)老人彫刻す。
芭蕉堂は蕉翁八十年の昔、おのれ蝶夢が造立(ぞうりつ)し、粟津文庫は百年の今、沂風(きふう)成功す。

   繪  法橋 狩野 正栄 至信   (※狩野至信は彩色画、版画は吉田偃武)

如何(いか)なる宿世(すぐせ)の因縁にや、おのれ鳥を駆るの頃より、手習い文(ふみ)学ぶの暇(いとま)あれば、芭蕉翁の風雅の體(たい)を慕うのあまり、ありし昔の跡を懐かしみて、
はじめ伊賀の国に生れ、難花(なにわ)の津に終り、粟津の寺に葬り奉りし迄のあらましを、繪に表わさまほしく、近き年、友なりける狩野法橋を語らいよりけるが、すでに筆を取りける時は計らずも内裏(だいり)造営の御事始まりて、公の務めの暇なく、やや六年を歴(へ)て、今年の秋の末、蕉翁絵詞伝成りぬ。

その詞(ことば)は、翁の自ら書き給いし、または其角がものせし終焉記、支考が笈日記の数々をもて綴る。
さるに詞を書かむに、時の右筆(ゆうひつ)は誰ならむと議(ぎ)するに、法橋の云う、由無(よしな)の業(わざ)や、名筆選みて何せむ。 さは、世にある人の手鑑(てかがみ)など云いて、筆の宝(たから)集むるがごとし。

ただ法師の、ありのまゝなる筆の拙きあとを残しなむこそ、後にこの道の人の見て、うべ、かかる筆にも、つゆ慚(はじ)ず、自ら書けるぞ、烏滸(おこ)ながら道にまめやかなりし法師なりしよと云わむは本意ならずや、と諌(いさ)むるに、げにもさは云われたり。
必ず人に見すべきの料(りょう)ならず、偏(ひとえ)に、こたび芭蕉翁の百回忌の懐旧の手向(たむ)けにこそと思い返し、わなゝかれたる老いの筆をそめて、義仲寺の芭蕉堂の影前に奉るは、

 寛政四年 子(ね)の冬 十月十二日(松尾芭蕉の命日)  蝶夢 幻阿弥陀仏 謹書

五升庵蝶夢が宝暦十三年(1763年)の芭蕉翁七十回忌で墓所の義仲寺(ぎちゅうじ)を訪れた時、蝶夢は三十一歳で、寺がかなり荒廃していたことは始めに書きました。
蝶夢はその後、荒れ果てた義仲寺の再興と、埋もれかけていた芭蕉作品の復興とに力を注ぎ、三十年後の芭蕉翁百回忌(寛政五年・1793年)は盛大に催されたとされています。

この「芭蕉翁・絵詞伝(えことばでん)」は、その前年にやっと完成して義仲寺に奉納され、蕉翁九十九回忌の記念に花を添えることができました。 蝶夢六十歳のことになります。
その翌年に出版された「絵詞伝」の挿絵は京の絵師:吉田偃武(よしだ・えんぶ)による木版画ですが、義仲寺に奉納された本には狩野正栄至信の手による彩色画が添えられていて、現在インターネット上で閲覧できます。
→ 芭蕉翁絵詞伝」挿絵展示室

この「絵詞伝」はそのままでは読みにくいので、こうして現代風の抄訳にしてみましたが、大正十五年に幸田露伴の校訂による復刻本が出ていて、現在インターネットのデジタル・ライブラリーで閲覧することができます。 露伴による序文の他に、芭蕉の句集や紀行文集も収められているので、全文を読んでみたい方はこちらからご覧になって下さい。
→ 「芭蕉翁・絵詞伝」 近代デジタル・ライブラリー

現代の復刻版は京都の芸艸堂から原版木による再摺りの豪華本が出ていますが、定価が五万円くらいしますし、Amazonの中古本でも結構な値段が付けられています。 豪華本のコレクションが趣味という方は別として、中身が読めれば良いという方は無料のデジタル・ライブラリー版で充分でしょう。

2014年9月24日水曜日

67. 『おくのほそ道』について

松尾芭蕉の「おくのほそ道」は、元禄二年の春から秋にかけて奥羽から北陸への旅を綴った紀行文ですが、旅のすぐ後に書かれたものではなく、しかも芭蕉の生前には出版されませんでした。

岐阜の大垣で一旦旅を終えた芭蕉は、それからまた舟に乗って「伊勢の遷宮拝まん」と出かけますが、しばらくは江戸に戻っていません。 その後も伊賀上野の生家を始め、近江や京都の門人宅を転々としながら二年ほどを上方で過ごし、やっと江戸に戻ったのは元禄四年の十月二十九日、現在なら12月中頃の初冬になります。

その後もすぐに執筆を始めた訳ではなく、「いつから」ということは文献が無いので分かりませんが、幾つかの草稿で推敲を重ねた後、能書家の素龍が二度目に清書した本の跋(ばつ)には「元禄七年初夏(四月)」の日付があり、表紙に芭蕉自らの手で「おくのほそ道」と外題(げだい)を入れたことからも、それが「決定稿」であるとする現代の見方で間違いないでしょう。 芭蕉はその浄書された「おくのほそ道」を持って五月に伊賀上野の生家を訪れ、「兄の慰みに」とその手作り本を実家に置いてきています。

松尾芭蕉が亡くなったのはその半年後の元禄七年十月のことで、生家にあった素龍・浄書本は遺言により門人・去来のものとなりました。 その時の経緯(いきさつ)は「去来・奥書」に書かれていることなので、ここでは省きます。

芭蕉自身に「おくのほそ道」を上梓(じょうし)する気はなかった様ですが、没後八年ほど経った元禄十五年(1702年)に、去来の持っていた原本を透き写して版にしたものが京都の井筒屋から出版され一般の人でも読めるようになりました。 それがいわゆる井筒屋「元禄版」と呼ばれる初版本ですが、それには「素龍・跋文」は省かれていました。
去来が持っていた原本は、その後人の手から手へと渡り、現在は敦賀の西村家が所有していることから「西村本」と呼ばれています。

井筒屋「元禄版」の奥書には、「真蹟(しんせき)の書、 門人・野坡(やば)が許(もと)に有り」―とありますが、これは素龍が浄書する前の芭蕉・自筆本ということで、通称「野坡(やば)本」と呼ばれているものです。
「草稿の書ゆえ、 文章所々相違す」―と書かれているのはそうした理由で、これは近年(1996年)になって発見され、岩波書店から「芭蕉自筆 奥の細道」として復刻版が出ています。

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木版の文字に比べ、芭蕉の文字の伸びやかさに驚かされ、「これなら素龍に浄書を頼む必要もなかったのでは?」と思うのですが、余命半年の芭蕉には、そうした体力は残されていなかったのかもしれません。
上の画像は序章の部分ですが、「予もいづれの年よりか」の「予も」は未だ入っておらず、逆に「海濱にさすらへ」は「海濱にさすらへ」と、「て」が後から省かれたことが分かります。

自筆本でもう一つ驚くのが、貼紙による修正箇所の多さです。 ほとんどのページに貼紙がしてあり、推敲の跡をうかがわせますが、この復刻本は二千円台でそんなに高くないし、大きめの図書館ならインターネットで検索すれば出てくると思うので、興味があればご覧になって下さい。

320年もの間に人の手から手へと渡り、その間に振り仮名や書き込みなどが入っていますが(上の画像参照)、芭蕉の頃には濁音表記など無かったはずなので、それらは後世の人の手によるものと考えた方が良いでしょう。
この芭蕉・自筆とされる「野坡本(やばほん)」は現在中尾堅一郎氏が所蔵していることから、「中尾本(なかおほん)」とも呼ばれています。

「おくのほそ道」の原本としては、素龍が最初に清書した本として「柿衞本(かきもりほん)」(1960年に発見)があり、全体として仮名書きが多いことから文字の読み方の参考になると言います。(柿衞文庫〈かきもりぶんこ〉所蔵)

もう一冊が曾良の持っていた「曾良本」(1938年に「曾良・旅日記」と一緒に発見)と呼ばれるもので、素龍が浄書する以前に書かれた初期の段階の草稿を筆写したものということです。 

去来が芭蕉の兄から譲り受けたもの(いわゆる「西村本」)が一番完成度が高く、その後に京都の井筒屋から出版された「元禄版」がそれを模写したものだとすれば、それを「おくのほそ道」として読んでいれば良いのでしょう。 後になってから発見されたものは、あくまでも学術的資料ということです。


元禄十五年に井筒屋から出版された初版本は復刻本が幾つか出ていて、大抵は千円台と手頃な価格ですし、図書館でも捜せば何冊か見つかると思います。

元禄版 おくのほそ道」 (雲英末雄・編) 

これは編者所有の「元禄版」を影印(写真画像)で復刻したもので、「読み」は入りませんから、どちらかというと研究者向けで、くずし字では読めないという一般の方向けではありません。


それと、「井筒屋本 おくのほそ道」(成文堂・黄色 瑞華) 

これは写真を白黒二色化にしてあり、上に小さく「読み方」が入るので読みやすいです。
ただ白黒化すると紙の汚れなどが目立つので修正してありますが、芭蕉の筆跡の癖として最後に打つ点がかなり離れた所にあるので(慣れないと傍点に見える)、「出」の字などで汚れと間違えて消している箇所がありました。


「おくのほそ道」が井筒屋から出版されたのは元禄十五年(1702年)と今から312年前ですが、芭蕉自身に出版の意思がなかっただけでなく、完全な原稿も無ければ本人による校訂も入らなかったので、様々な問題を残すことになりました。
文字の読み方一つをとっても「尿」が「しと」か「ばり」かで学者間でも意見が分かれますが、そうした些細なことよりも、これだけの作品がこうした形であれ残されていることの方が、はるかに重要なことだと思います。

「おくのほそ道」の井筒屋本は、初版の「元禄版」から68年後の明和七年(1770年)に、当時38歳の俳人僧・蝶夢の努力によって再版されました。 それは伊賀上野の生家に埋もれていた「去来本の写し」から版を起こしたもので、「元禄版」では省かれていた「素龍・跋文」に加え、「去来・奥書」も付けられています。
これが「明和版」、あるいは「蝶夢本」と呼ばれているものです。
 愛知県立大学図書館コレクション → 「おくのほそ道」明和版・PDFファイル

蝶夢は芭蕉翁七十回忌で大津の義仲寺(木曽義仲の墓所)を訪れた際、寺の荒廃ぶりを嘆き、その再興を誓ったといわれます。 芭蕉の没後69年というと、宝暦十三年(1763年)に当たり、蝶夢はその時三十一歳だったことになりますが、墓所がその有様では「おくのほそ道」も既に過去のものとして埋もれかけていたのかもしれません。 だからこそ、新たな再版が必要だったのでしょう。 現代の我々が持つ「俳聖・松尾芭蕉」というイメージも、芭蕉の作品集や初めての伝記を編纂した五升庵蝶夢という俳僧の尽力に負うところが大きいようです。→ 蝶夢 「芭蕉翁絵詞伝」 全三冊

「明和版」から19年後の寛政元年(1789年)に出版されたのが「寛政版」で、版木が別版なので「明和版」と比べると文字の形が微妙に違いますが、前の版木が擦り切れるほど刷られたということでしょう。
「寛政版」も愛知県立大学図書館コレクションとしてPDFファイルの形で閲覧でき、「明和版」よりも保存状態が良いので、このブログの原文もそれを画像編集して使っています。→ おくのほそ道」寛政版・PDFファイル


「おくのほそ道」には辞書で調べても出て来ない難しい表現が数多くあることから、「奥細道・菅菰抄(すがごもしょう)」(蓑笠庵〈さりゅうあん〉梨一・著)のような専門の解説書まで出来ました。 安永七年(1778年)の発行で「明和版」から八年後ですが、解説書が必要なくらい読まれるようになっていたということでしょう。 逆を言えば、当時から解説無しでは読めなかったことになりますが・・・
「菅菰抄」は現在、岩波文庫版の「おくのほそ道」に付録として載っていますが、漢文混じりのカタカナ表記でかなり読みにくく、現代では「菅菰抄」そのものにも解説か現代語訳が必要となっています。
これも愛知県立大学のコレクションから、上巻・下巻を閲覧することができます。→ 菅菰抄・PDFファイル

「おくのほそ道」を読むのにもう一つ重要な資料となるのが「曾良・旅日記」で、「越後路」のように半月あまりの行程を飛ばしている箇所も、「曾良・旅日記」を読む事により不愉快な出来事が色々あったことが分かるし、日付も今となっては貴重な資料といえるでしょう。
「曾良・旅日記」は「岩波文庫」と「角川ソフィア文庫」の両方に付録として収められています。
旅の途中で行った俳諧興行での俳句をまとめた「曾良・俳諧書留」は、「岩波文庫」に収録されています。

あと、地図に関しては「岩波文庫」と「角川ソフィア文庫」にも簡単な地図が巻末に掲載されていますが、一番詳細な地図が載っているのは「講談社学術文庫」版です。


三冊の文庫本の内容を比較してみると、「井筒屋本」に一番近い形が「岩波文庫」です。
岩波文庫」は注釈が少なく本文の下に簡単な注は付きますが、ほとんどは「→菅菰抄」と菅菰抄に丸投げで、しかも菅菰抄はかなり読みづらいから、注の役目をあまり果たしていません。 45章に分けられています。

角川ソフィア文庫」は送り仮名を増やしたり、漢字を現代表記に改めたり、平仮名の部分を漢字に直したりしているので読みやすいのですが、一番改変を加えているのも角川版です。 底本としている原本は他と同じ「西村本」ですが、「野坡本」、「柿衞本」、「曾良本」 なども参考にしてかなりの変更が加えられているのは、原文と読み比べてみると良く分かるでしょう。 これも本文の下に簡単な注釈が入り、44章に分けられています。
本文の後にかなり詳しい「本文評釈」と「発句評釈」が付くので、より深く学びたい人にも向いていると思います。

講談社学術文庫」は本文が44の章に分けられていて、短い章の後に「現代語訳」と「語釈」と「句解」と「解説」が入るので、古典の参考書としての使い方なら良いかもしれません。 でも肝心の本文が膨大な解説の中に埋没している感があるので、これで「おくのほそ道」を読もうとするとかなり疲れることになります。
現代人にも読みやすいよう送り仮名を増やし、その箇所に傍点が付けられているのは「角川文庫」と同じです。

それぞれ一長一短で「この一冊で完璧」といえる書物はありませんから、何冊かを読み比べてみると良いかもしれません。